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夜は静かな月の女王【ショートショート】

 窓の外からは何も聞こえない。私はこの時間が好きだった。邪魔するものがない、一人だけの時間……。これが最後の夜。アンドロイド破壊プログラムも、朝までには完成しそうだ。

 静かであることはいいことだ。月面コロニーから発せられる街の灯りが宇宙を泳ぎ、黒い空を少しばかり白く照らしている。夜空に喧騒は似合わない。カフェイン錠を吸収せずとも、この美しさ、この静けさは、じゅうぶんに私を睡眠から遠ざけてくれる。「月が出ている間は地球上での戦争行為を禁ずる」という条約のおかげだ。

「手が止まっていますよ、センセイ」月のように白い人型自律AIが言う。「ミルクココアを持ってきました」

自然ナチュラルミルクか?」
「そんな高級品、もう残っていませんよ」AIは、カップの載ったプレートを私のデスクに置いた。

「ほんとうに──」AIは口を噤んだ。
「なんだ、言いなさい」人工乳の味も最近は進化しているのだな、と思いつつ、私は訊いた。

「ほんとうに完成させるのですか?」
「世界への影響は承知の上だ」
「《リスク》という言葉が適切であると思いますが」
「私はこの仕事を承認した。承認すべきだから承認したのだ」

 仕事を受けた理由はある。私はこの静寂から、夜を奪ってほしくないのだ。それにきっと、昼間も静かになる。

「キミはもう寝るといい。キミは信じないかもしれないが、カップを洗う能力がないわけではないのだ」

 AIは、こわばった顔のまま動かなかった。数秒経つと、AIの胸部のランプが黄色に発光し、すぐに元の表情に戻った。そして再び一礼すると、今度はきちんと廊下へ向かった。

「ではセンセイ、さようなら」

 あの機能──黄色いランプ──を設計したのは私ではない。私の家に来た頃から既に実装されていた。AIは人間に服従しているからまだいいのだ。問題はアンドロイドだ。

 もともと、反AI兵器用に製造されたのが従人類人型自律ユニットであるアンドロイドだが、今度はアンドロイドのほうが人類に反旗を翻したのだ。

 私がアンドロイド破壊プログラムの設計を頼まれたのは、その役人も、私と同じように、アンドロイドによって家族を殺されたからであった。

 人間相手なら交渉やら慈悲を実行する軍部の人間も、機械相手には容赦がない。戦争は日ごとに凄惨さを増していき、娘の通う小学校も、私が勤める大学も閉鎖されるようになった──私は解剖されなくなったのでその点だけは歓喜した。

 あの日の太陽はやけに煩く、弾道ミサイルの流星群をうすら寒い白色で輝かしていた。どこかの地面にそれらが突き刺さった轟音が辺りを支配すると、子どもらの泣く声に即座に取って代わった。私は娘を抱きしめながら、「大丈夫だよ」としきりに言った。

 しかしその日はどうしても、外出しなくてはならなかった。月面シェルターへ移動するための宇宙ドローンへ搭乗する必要があったのだ。

 予約の時間までに待機場所に到着するためには、どうしても、流星群の下で移動しなければならない。私は娘の手を引いて、恐るおそるドアを開けた。太陽の煩さは勢いを増す。

 私と娘は地上ドローンに乗り、目的地へ向けてそれを走らせた。私は娘の眼を塞いだ。泣き崩れる母娘。瓦礫に埋まったちぎれた機械の足を引っ張る人。爆弾から延焼した家屋が新たな瓦礫になる。遠い銃声のこだま。地獄だ。

 「大丈夫だよ」と繰り返しつぶやいた。それしかなかったのだ。

 だが、目的地まであと数マイルというところで、突如として娘の命は奪われた。アンドロイドによる凶弾にたおれたのだ。私がそのことを思い出せないのは、ほんとうに人間的であると思う。覚えているのは、両腕に感じる身体の重みだ。重力以外に従うものがない娘の身体から、少しずつ熱が冷えていく。私は、《感情》というとても大きなエネルギーでもって私の身体を支配した。私は怒り、悲しみ、そして誓った。

 娘を撃ったアンドロイドはこう言った。「裏切った者はかならず裏切られるのだ」

 私はそのアンドロイドが言ったことを全くそのまま返し、彼を撃ち殺した。月面への移住も取りやめた。

 あれから4年の月日が流れたが、まだ戦争は終わっていない。人口はほとんど減っていないし増えてもいない。AIやアンドロイドを製造するための金属や石油の量が著しく減るばかりだ。

 しかし、悲願の時はもうじきやって来る。こういう時こそ、落ち着かなければならない。静寂の夜──その美しさ。願わくば、その愛しさを太陽にも与えてやりたい。

 人工ミルクココアを飲み干して、カップをプレートに置く。私の家にいるAIのことを想い、自らの仕事の意味を再認する。

「やはり、服従プログラムではダメだ。破壊でなくてはならない」

 自分に自由意志がないことを思い知らされるのは、同じアンドロイドとして、彼らもきっと耐え難いことだろう。いや、その耐え難さすら、私以外の彼らには理解できないかもしれない。

 私は、もう一度窓のほうを向いた。月面で停電が起こったので、暗くなったことに気付いたのだ。これが自然の夜であるとすぐに理解した私は、そのまましばらく、夜をじっと見つめていた。


2024年5月25日 薊詩乃


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