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宿命論

因果は廻る──牢に入った彼女のもとへ、彼は一度として面会へ赴かなかったが、それはこの思想によるものだった。自業自得だ。

宿命というものがあるならば、彼女が罪をおかしたのもまた宿命だ。彼女の行動よりも、からだや精神の仕組みのほうが、罪深く造られていたのだ。

そのため、彼女は罪とはなにかを分かっていなかった。心神喪失というわけでもなかった。彼女は陶酔し、美化し、自惚れていた。刑に服しているが、罰とはなにかも同様に知らなかったので、牢にいる意味もないのだろう。

「仕方がないのだ」「それが彼女の宿命だ」と彼は合理化した。裏腹に、心の怪物は海鳴りのごとき唸り声をやめない。

あのとき手を取っていれば、あのとき手を離さなければ、あのときおれが離れなければ、君が罪に逃げることもなかったのではないか、と。

彼女の内部から彼のような情愛が抜け去っていたことに気づいていて、だからこそ手を伸ばせなかったことは事実だ。でも、「ほんとうによかったのか?」と自問しない日はない。

おれが「それでも」と言えたならよかったのだろうか。因果は廻る。君が罪を犯したことは、おれが最初に手を握ったことと繋がっている。それは君がおれから離れようとしたこととも繋がっている。すべては宿命の網のなかでもがいているだけだとしても。裏切られた苛立ちと哀しみは、君の罪と何が違うだろう。

答えが出るのは、きっと君が外に出るときだろう。

そのときになっても、誰かが君を許すことはないだろう。

それに君が気づくことはないのが、一番かなしいことである。


2024年5月21日 薊詩乃

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