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#ケイコバ2023 に行っていました【1日目】

※これはレポ記事というよりもむしろエッセイです。

「ケイコバ!」初日

当日の朝。
地下鉄(Osaka Metro)の御堂筋線の心斎橋駅を降りて徒歩5分程度。会場であるウイングフィールドに到着した。

この後に「演出家から演出プランの発表→参加者がどの演出家のもとで稽古したいか投票」という嫌な流れが待っていたため、恐ろしく緊張していた。

なんとか発表を終えた後、演出1人(薊詩乃)、俳優2人、稽古場助手1人、という班に分けられる。その後、以下のワークショップ(WS)に移行した

稽古場ルールを考えるWS

「上級ハラスメントマネージャー」(この字面だとハラスメント上級者みたいだが、そういう意味ではない)の認定を持っておられる阪田愛子氏の進行のもと、座組4人で稽古場のルールを決めようというワークショップが開始された。より良い稽古場、明日も来たいと思える稽古場、それに必要なものとは何だろうか、と。

「コミュニケーション」「パフォーマンス」「リスペクト」という3つのテーマで、決め事をつくっていく。
「否定から入らず、『こうすればもっと良くなる』を伝える」
「演技のもとになった感情や目的について言語化して伝える。ただし『言語化できない感情』を許容する」
「人の特徴を知った上で、過剰に反応したり過剰な配慮をしたりしない」
など……色々な意見を出し合えた。

このワークショップはすごく有意義だと思った。
他の稽古場がどのような運営をされているかは分からないが、ルールとは得てして暗黙の了解になりがちではないだろうか?

特に、確固たるメンバーで構成された劇団ではなく、流動的な、外から俳優を呼んで刹那的な座組をつくる劇団では、ルールが言語化されない場合が多そうだ。

各々のバラバラな経験のなかで、なんとなくの基準が生まれていく。演出家も俳優も、タイプがバラバラで、できることやできないことが沢山あるにもかかわらず、だ。

だからこそ、最初に、このようにして稽古場のルールを座組で話し合っていけることは、とても有意義であった。

経験の差をフラットにして話し合えたような感覚──これから一つの単位となって創作をしていくのだという感覚──

稽古開始

そしていよいよ、稽古が開始された。ここから先は、それぞれの班に進行は任されることとなった。

私はまず、「100の質問」というものを行なった。出題者と回答者に分かれて、100個の質問が書かれた紙から、素早く質問を見つけ、相手は素早く答える。
大きな目的はアイスブレイクで、付随する目的として、アドリブなどに使う素早い反応を設定していた。

結論から言えば、あまり良いものではなかった。アイスブレイクとしては良かったと思うが、質問内容があまり上手くなかった。

時間が多少前後するが、1日目の稽古が終わったあとに、稽古でしたことを班ごとに報告する時間があった。「100の質問」のことも発表された。その質疑応答の時間。

「質問事項の中に、答えたくないものはありましたか?」

盲点だったわけではない。だからこそ、個人の内情に突っ込んだような内容は避けていた。しかし、その反動と元ネタの「匿名ラジオ」のせいで、大喜利めいたことを質問事項に入れていたのである。

私の意図として、「面白いことを言え」なんて思っていなかった。しかし、回答者は、「面白いこと」を言おうとしてしまう……これは本意ではない。早速、齟齬が起こってしまったのだ。

さらに、そういうものも含めて私が用意した質問群は、初対面の人が仲良くなるためのものではなく、仲良くなってきた人がもっと仲良くなるためのものに向いていると思った。

悔しい。申し訳ない。

──さて、その後に、読み合わせを行なった。今日は読み合わせだけで終わった。なんと、ひとつの単語の読み方を勘違いしていた! なんという失態だろうか!

感情や目的のほうを詰めていったので、それ自体は悪くなかったと思う。外面的な演出で工夫することは数あれど、だからといって登場人物の内面はそうそう簡単に変わりやしない。

だが──これも時間が前後するが──この作り方はこのワークショップの特性を活かしきれないものではないか、という意見を頂戴したのである。

このワークショップは、初日以外は毎日、中間発表的な上演を行い、それに対する意見をもらい、それを踏まえてまた稽古し、翌日また発表する、というスタイルなのだ。

しかし、台風の影響で、中間発表が一度きりになったのである。つまり、他の人の意見を聞けるのも一回きりなのだ。

そういう意見をもらって、初日でもう少し冒険しても良かったのでは、と思わないこともなかった。しかし私は原作から逸脱したり、「足し算」することもあまり好きではない。

だからといって、ただただ原作をなぞっていては、この不浄なる薊詩乃が生きている意味がない。私はどうすればよいのだろう、と悩んだ。

初日を終えて、薊詩乃が想うこと

演出とは何か?

ほぼ確信に近い推量だ。すなわち、演出とは塗り絵なのだ、と。輪郭は原作や脚本が示してくれている。モノクロで塗るか、血糊を撒き散らすか、丁寧な水彩をするか──それが演出に委ねられた行為なのだ。

どう塗ろうとその人の勝手だ。奇をてらった塗り方をしても、それが冷笑を買ってしまえば終わりだ。純粋に何も気取らずに塗っても、新規性がなければ意味がない。

薊詩乃は薊詩乃の塗り方をするしかない。そしてこの塗り絵は、意識的に色を塗る行為でもない。無意識のうちに、演出家自身の精神から滲み出た汗のような絵具で、自然と塗られていく作業なのだ。

感情も、自我も、出そうとして出るものではないのだ。

そのために、私は私を曲げてはいけない。演出家は、折れてもいいが、曲げてはならない。他の人の意見を受けて「こっちの方がいいな」と演出を変えるのは良い。しかし、それに演出家の嘘が含まれていてはいけない。

「実はあのときこう思ってたんだよね」
「こっちのほうがいいと思ってたんだよね」

終わってから出されるこんなゴミは、創作にとって不要であるどころか、むしろ有害だ。

薊詩乃は歪んでいる。
自然と、歪みは滲んでいく──

より良い稽古場であり続けるために

「明日も行きたい稽古場」にするためには、まず、「私が行きたい稽古場」でなければならない。しかしそれは独りよがりであってはならない。

メンバーに恵まれている側面も大きい。俳優2人も、稽古場助手も、意見を正しく伝えられるし、その意見を正しく受け止めることができる人だと思う。

「正しく」とは、決めたルールに則った形で、感情的でなく論理的に、という意味だ。

そういう人たちと創作できた初日だった。
私は楽しいと思った。

この私の「楽しい」を他のメンバーにも共有するためには、私も「正しく」あり続けなければならない。

熱が高まってくると、人間はルールから逸脱しがちだ。それをしてしまえば、前回の二の舞になってしまう……。

だがここで羅針盤になってくれるのが、やはり最初の稽古場ルールを考えるWSである。

ここでメンバーの視線を統一できたことが、稽古場運営で大いに役立っているし、誰かが危険因子になってしまったとしても、メンバー全体で問題視できる。相互監視ではないのに、相互に視線を交わし合えるのだ。
自団体にも取り入れようと思う。

2日目が無くなってしまったことは、創作の上でも、「稽古場に行けない」という点でも、非常につらいものである。

3日目に稽古場に行ったとき、「今日稽古場に来て良かった」「明日も行きたい」と思えるように、そして言ってもらえるように……歪んだ薊詩乃は、歪んだまま、正しい歩みを続けていきたい。


2023年8月15日 薊詩乃

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