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他言語というコワさ──『落下の解剖学』と『胸騒ぎ』から

言葉が伝わらないのは心細く、怖い。

最近観た二つの映画『落下の解剖学』『胸騒ぎ』に、ともに「主人公が自由に扱えない言語」に関する描写があった。それが、それぞれの作品の本質を貫く要素であったので、軽く備忘録程度に書いていきたい。

観ていない作品だったならば、2本とも両手を挙げてオススメはしにくいがとてもよい作品だったので、是非上映館にも足を運んでほしい。

※本記事は映画『落下の解剖学』および『胸騒ぎ』の重大なネタバレは含んでおりませんが、事前情報無しで映画を楽しみたい方はご注意ください。


1. 『落下の解剖学』

人里離れた雪山の山荘で、男が転落死した。
はじめは事故と思われたが、
次第にベストセラー作家である
妻サンドラに殺人容疑が向けられる。
現場に居合わせたのは、
視覚障がいのある11歳の息子だけ。
証人や検事により、
夫婦の秘密や嘘が暴露され、
登場人物の数だけ<真実>が現れるが──。

映画『落下の解剖学』公式サイトより引用

独、英、仏──三つの国で生きた主人公

主人公サンドラはドイツ生まれで、ロンドンで夫となる人物に出会い結婚。現在は夫の故郷であるフランスの山奥に暮らしている。多少なりとも言語に関して複雑なアイデンティティが彼女に形成されていることがわかる。

サンドラとその息子は英語で会話をする。彼女の弁護士とも英語で話をする。しかし、事件が起き、彼女が被告となると、「裁判ではフランス語を話すように」と弁護士に釘を刺される。

裁判が始まると、サンドラは検察や裁判官、あるいは証言者からフランス語で〈解剖〉されていく。

彼女はフランス語を話すことができるが、裁判で話すような複雑な概念や思考までは、上手に伝えることができない。そこで、同時通訳の力を借りて、英語での証言を試みる。

検察や裁判官らはイヤホンをつけ、通訳された音声を聞く。彼女は必死に内情を訴えるが、それはおそらく彼女にとって、本当の心の声を伝えたことにはならないだろう。

もしかするとそれは、字幕を通して映画を楽しむことになるわれわれ異邦の観客にも同じことが言えるかもしれない。

「原語で海外映画が鑑賞できたらどれだけいいだろうか」という己の言語習得の未熟さを棚上げした発言はやめておき、映画が語る内容に触れていこう。

〈解剖〉されていく孤独──異国で暮らす主人公

この映画では、事件の真相を明らかにしようとする他に、サンドラの内面が〈解剖〉されていく様子が描かれる。彼女が被告人であるから、それはまぁ当然というか、仕方のないことだ。ネタバレでもなんでもない。

そのとき、サンドラの抱えている問題──それは言語的アイデンティティや故郷を離れて暮らしている現状にもかかわる──も〈解剖〉されていくことになる。

すなわち、サンドラの孤独である。故郷から離れた土地で被告人となり、夫の母国語とはいえ彼女にとってはやはり異国の言葉で詰問される。

サンドラが抱えている問題の奥底には、「私はこの国の人間ではない」というアイデンティティ・クライシスが流れているのだ。

裁判での〈解剖〉によって、彼女は徐々に孤立していく。その孤立を、フランス語に対する英語という構造でも表現しているのだ。

だがしかし、問題はそんなに単純ではない。

果たして真実はどこにあるのか?
サンドラと夫が抱えていた本当の問題とは? 彼女に下される判決は有罪か無罪か?
──それは劇場で確かめる他ない。


この映画において、主人公にとっての「他言語」は、自らの抱える問題を浮き彫りにする楔としての役割が与えられていた。

では、デンマークで製作されたヒューマンホラー『胸騒ぎ』ではどうだろう。ここでは、まさにその〈胸騒ぎ〉の担い手のひとつが「他言語」なのである。

2. 『胸騒ぎ』

イタリアでの休暇中、デンマーク人夫婦のビャアンとルイーセ、娘のアウネスは、オランダ人夫婦とその息子と出会い意気投合する。後日、オランダ人夫婦からの招待状を受け取ったビャアンは、家族を連れて人里離れた彼らの家を訪れる。再会を喜んだのも束の間、会話のなかで些細な違和感が生まれていき、それは段々と広がっていく。オランダ人夫婦の“おもてなし”に居心地の悪さと恐怖を覚えながらも、その好意をむげにできない善良な一家は、週末が終わるまでの辛抱だと自分たちに言い聞かせるが——。

映画『胸騒ぎ』公式サイトより引用

招かれる主人公──ホームからアウェイへ

主人公一家は、デンマーク人であり、そこの言語を話す(おそらくデンマーク語)。

オランダ人夫婦宅に招かれた主人公たち。通常はお互いの夫婦で通じる英語で会話をするが、相手夫婦に内容を悟られたくないときは、デンマーク語を話す。

家族内で通じるある種の暗号があるということは、精神的な繋がりやアイデンティティを保つことができる、優秀なファクターとして役立つ。

しかしそれは相手にとっても同じである。

オランダ人夫婦も、同じようにオランダ語を話す。しかしその内容は主人公達には分からない。それが小さな〈胸騒ぎ〉のひとつとなる。

「ホームからアウェイへ」ということが、〈胸騒ぎ〉の全てではない。

はじめは歓迎ムードに喜んでいた主人公家族も、〈胸騒ぎ〉が強くなっていくと、ホームからアウェイにやって来た感覚が徐々に強くなっていくだけではなく、やがて、オランダ語そのものが不安要素に化けていくのだ。

〈胸騒ぎ〉としての他言語──分からない恐怖

物語が進むにつれ──あるいは序盤から──主人公たちが〈胸騒ぎ〉を感じ始めると、オランダ語で話されることがになる。

「私たちに分からない言葉を話すな」という想いが、異邦人への差別とは異なる・・・・・感覚で湧き上がるのだ。この場合、それがオランダ語だろうがフランス語だろうが関係ない。〈胸騒ぎ〉が絶えない異常な状況だからこそ、未知の情報が怖ろしいのだ。

ここで、クトゥルフ神話と呼ばれる神話体系を創始した、ホラー小説の大家H.P.ラヴクラフトの言葉を引用したい。

The oldest and strongest emotion of mankind is fear, and the oldest and strongest kind of fear is fear of the unknown.
(古くからあり、かつ、最大の恐怖とは、未知なるものに対する恐怖である)

Supernatural Horror in Literature (1927)

この映画では、他言語とは未知なる言語であり、恐怖の一要素なのだ。分からないことは怖い。分からない言葉で話され、それがまた新たな〈胸騒ぎ〉を呼ぶのだから本当に恐ろしい。

映画を観ている観客は、字幕を読むことができる。しかしそれは、お互いの夫婦の共通言語および主人公一家の使う言語である、英語とデンマーク語のみなのである。

すなわち、オランダ人夫婦の間だけで交わされる会話は、観客にとってもまったく分からない。主人公一家と同じ状況に観客も陥ってしまうのだ。

観客も、やめてくれってな具合に〈胸騒ぎ〉を憶えてしまう。やがて、言語とか関係ないほどにそれは大きくなり、ついにはある事が──

果たして主人公たちはどうなってしまうのか。
それは映画館で見届けてほしい。

3. 終わりに

「日本でずっと暮らすんだから英語を勉強する必要なんてない」と、英語嫌いの中高生はよく口にするが、現状、ある意味はそうなのだろう。

映画の舞台になったフランスやデンマーク、オランダは大陸で他のEU諸国と繋がっている。言語の行き来も激しい。そこに移民のことがあればなおのこと。

日本にとって、現状、言語の問題は、彼らほど深刻ではないのだろう。

今後、世界の繋がりの中に日本が今まで以上に取り込まれていくと、同じような孤立や不安感を描いた作品がつくられていくのだろうか。

『胸騒ぎ』が「オランダ人は怖い」ではなく「この夫婦おかしい」という感想をもたらすように、それが言語対立や民族対立を煽るものではないことを願う。


2024年5月19日 薊詩乃

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