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人間農場と遥かな冥王星
「本日より、冥王星を《惑星》とする」
長官がマイクの前で語ったそれは、科学的営みから大きく外れた発言だった。政治が科学を蔑ろにするのはよくあることだし、《世界政府》の通常通りの狂気だと聴衆は一蹴した。現実世界で生きている《世界市民》にとっては、冥王星が惑星か準惑星かどうかなんて、人生と何の関係もないのだ。そんなことよりも、明日何と言って取引先に謝るべきなのかが大切である。
懐疑を持ったのは科学者だった。冥王星を惑星に戻すことで、一体何の意味があるのか、まったく分からなかったのだ。たかだか数十年しか準惑星の地位についていなかったとはいえ、冥王星が惑星である必要がどこにあるのだろうか……?
……
ロバートは天文学者である。しかし、27という年齢は、研究者にとってはまだ年端もいかぬ素人同然であって、彼らは同業の教授の嫌味や愚痴の捌け口になるには絶好の存在であった。
象牙の塔にほとほと厭気が差した彼だが、食い扶持のために、天文学者の肩書きを保っていた。いつしか彼の日課は、望遠鏡を覗き込むことでも、観測されたデータと睨み合いをすることでもなく、《研究室で美味いコーヒーを淹れる方法の研究》となった。
ロバートは、何か気になったことについて、突き詰めて調べる主義である。
13の頃、打ち捨てられたピストルを拾い上げた時なんかは、その分解と組立を三日三晩繰り返し、銃の機構を完全に理解した。彼はその時まで銃を見たことがなかった。しかし、分解と組立を繰り返す中で、その銃の致命的な欠陥にさえ気がついた。銃は故障していたのだ。だから捨てられていたのだな——と彼は感心した。
そのような性格だから、彼の研究室は、コーヒー豆やらコーヒーミルやら、およそ天文学と関係のない物品で埋め尽くされていた。足の踏み場もないほどに。国産の物から、旧ヨーロッパ地方の物、あるいは戦後闇市で手に入れた物まで、それを経費で申請していても、大学は何も言わなかった。ロバートは諦められていたからだ。
そんなロバートが冥王星の惑星復帰に疑問を抱いてしまったものだから、その日から、彼の部屋は冥王星の写真や論文だらけになった。
しかし、世界中の論文を読み漁っても、冥王星は準惑星であるほうが妥当であるように思えてならなかった。冥王星を惑星にすると、水・金・地・火・木・土・天・海・冥……以上に、惑星となるべき星が多く存在してしまうことになるからだ。
ロバートは思った。準惑星と惑星の基準を変更したわけではなく、《冥王星を惑星にした》のには、科学以外の理由があるのだと。そしてその理由は、世界政府の保有する、正体不明の兵器と関係があるのだと。
冥王星の何が特別なのだろうか。人類は冥王星の探査を終えていない。にもかかわらず、なぜ冥王星を特別視する必要があるのだろうか。
「冥王星から何かが飛来したのではないか──隕石のようなものが某国に落下し、そこに何か地球に存在しない原子があって、新兵器にそれを用いたのではないだろうか」
ロバートは冥王星を観察した。冥王星からの飛来物がないか、飲まず食わずで望遠鏡を覗き続けた。しかし成果は得られなかった。
……
「いつから紅茶主義者に鞍替えしたんだ?」
ある時、先輩にあたる教授がロバートに言った。
「随分君の部屋はいい匂いになった。焦げたような豆のにおいが消えて、すっかりいい匂いになったもんだ。紙のにおいはいい。インクのにおいも……」
「教授。僕はね、冥王星のことを調べているんです」
「惑星に出戻りしたあの冥王星か」
「そうです。なぜ世界政府は、冥王星を惑星にする必要があったのかと」
「そんなこと調べて何になる? 世界政府に逆らうような論文を、学会が通すとでも思っているのか? それともハゲタカ学会誌の編集部に恋人でもできたのか」
「科学の根源は好奇心です」ロバートは言った。
「ロバート、君にそんなに自暴自棄的な野心があったなんて思ってもいなかった。ただのコーヒー狂信者になり果てておくには勿体ないほどの馬鹿だな」
皮肉めいた苦笑の後で、教授は真剣な眼差しをロバートに向けた。
「好奇心は身を滅ぼすぞ。私の知り合いに、世界政府直属の研究所に雇われた天文学者がいるが──」
「天文学者?」ロバートは驚愕した。
「なぜ天文学者なんかを、世界政府は雇う必要があったのです」
「その理由は、おそらく君が調べていることと関連するだろう」
教授は続けた。
「多分、君は、コーヒー教徒に戻ったほうがいい。冥王星の秘密を追うのなら、私の友人と同じ末路を辿ることになるかもしれんのだ。それほどまでに、世界政府は不気味で、近寄りがたく、理解してはならないものなのだ」
「ご友人の、末路……?」
「廃人になった彼が世界政府の研究所を出たのは、およそ4年前のことだ。いいかね? 精神病院の病室から、横たわるベッドから、彼は出ることができないでいるのだ! ただうわごとを繰り返すだけ、幼児退行症と不眠症を患い、ずっと、そのままなのだ……」
「研究所で何があったのか、何を見たのか、なぜ天文学が必要だったのか、彼は何も語ろうとしない。何も語れないのだ。粉々になった精神のガラス……もう元の形に戻ることはない」
ロバートは息を呑み、聞き入っていた。大きく唾を呑み込んで調子を整えると、教授の話を手帳に書き殴った。
「ああロバート! 君はまったく科学者だよ!」
……
「いいかね──」
教授は自身の研究室にロバートを招き入れ、厳重に鍵を締めた。
「君が、どうしても、冥王星のことを調べたいのなら、旧マサチューセッツに向かえ」
「MITに行くんですか?」
「そうとも。私は、MITが保有しているという不可思議な書物の数々が、世界政府の脅威に関連していると思っている。図書館には、読んだら死ぬという得体の知れない魔導書があって、そこには……」
「なんということだ! 教授はご乱心だ! 科学者をやめて、あなたこそ、コーヒーの狂信者になったほうがいい。オカルト談義がしたいなら、僕以外を捕まえてください。文学部の学生とかね」
ロバートが呆れと怒りに任せて部屋を出て行ったあとで、教授が呟いた。
「そうだ……そうだといいんだ……。この世で最も恐ろしいことは、オカルトが現実であること……非現実が現実であることなのだからな……」
……
ロバートは、今日もまた望遠鏡を覗き込む。夏に吹く穏やかな熱風が、満天の星をそっと撫でるが、星々は依然として、知らん顔を決め込んでいる。
軍事衛星が周回する。
冥王星は今日も、不気味に白く光っている……。