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彼女は鏡の前に立ち、静かにハサミを握っていた。長い髪が肩から腰まで、まるで自分自身の一部であるかのように垂れている。その髪は、彼に「好きだ」と言われたあの時から、ずっと伸ばし続けていたものだった。彼が喜んでくれるなら、どんなに長くてもいいと思っていた。けれど、今、その髪の先には何も残っていない。彼の姿は、もうどこにも見当たらなかった。

「長い髪が好きだって、あなた昔言ってたでしょう?」彼女は、思い出すように小さくつぶやいた。あの日の彼の言葉が頭をよぎるたびに、彼女はもっと髪を大切にしてきた。それは、彼との絆の象徴であり、いつか彼が戻ってきて、再び髪を撫でてくれると信じていたからだ。

しかし、彼が彼女から離れていく速度は、髪の成長よりもずっと速かった。何も言わず、何も残さず、彼は旅立ってしまった。彼女にとって唯一の希望だった長い髪も、今となってはその価値を失っていた。彼がもういない今、髪を伸ばす意味などなくなっていた。

「切ってしまおう…あなたに似せて」彼女は呟いた。彼の姿を追い求め、彼に近づきたいという思いが彼女を突き動かしていた。もし彼が短い髪であれば、私もそうすることで彼に近づけるのではないか。彼女はその幻想を抱きながら、静かにハサミを手に取った。

ハサミが髪に触れ、最初の一束が床に落ちた。その音は小さく、だが彼女にとっては重い響きだった。次々と髪を切り落とすたびに、彼女の中で何かが解き放たれるような気がした。これで彼に似ることができる、彼と同じ姿になれると、自分を慰めるように考えていた。

しかし、髪をすべて切り終えた後、鏡の前に映った自分の姿を見て、彼女は愕然とした。そこには、彼に似た自分ではなく、悲しみに震える泣き顔があった。短くなった髪が彼女を彼に近づけるどころか、さらに彼女の孤独を際立たせていた。鏡の向こうにいるのは、髪を切っても彼に届かない自分自身。その現実が、彼女を再び苦しめた。

彼の写真すら残らなかったこの部屋で、彼女は髪を切ることで何かを得られると思っていた。けれども、髪を切っても彼に似ることはできず、ただ自分の影が彼だと信じたい気持ちだけが募る。彼が残したのは記憶と、彼女が自分自身をどう処理すればいいのかわからない、混乱した心だけだった。

彼が旅立つその夜、彼女はついに全ての髪を切り終え、静かに部屋を見渡した。外は冷たい風が吹き荒れており、まるで彼女の心の中を吹き抜けるようだった。鏡の前で彼に近づこうとした自分自身が、逆に自分を見失っていく。

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