『幸せ屋』~岸和田老人の奇妙な一日~
岸和田はどうも健康すぎると日頃から思っていた。齢九十にして意気益々健康、血気盛ん。精力絶倫にして毎夜酒池肉林の宴を催す日々。特に健康なのは歯だ。入れ歯も差し歯もなく、あろうことか虫歯にも一度も縁がない。ある日これではいかんと思い立ち、岸和田は早速、虫歯屋に向かうことにした。
梅雨が明け、外はすでに猛暑の夏の気配。なにもこんなうだるような暑い日に、とも思ったが、思い立ったが吉日と、岸和田は最寄りの駅へと駆け込んだ。
当前のように線路はうどんでできていた。
干からびもせず、白くなまめかしく、緩やかなカーブを描いてうっふん、やーね、もうバカアバカア、といった風情でふしだらに横たわっている。
岸和田はにわかに「むふふ、よいぞよいぞ」と下腹部に疼きを覚えた。
今すぐ啜ってやろうかといきり立ったそのとき、緑色のゼリー電車がホームにぷるんぷるるんと滑り込んできた。淡いグリーンに透けたゼリー電車には入口も窓もない。プールに入れて作った巨大なゼリーが横滑りしているようなものだ。
岸和田はゼリー電車を二、三度、指先でつんつんし、ぷるんぷるんの感触を楽しんだあと「むふふ、よいぞよいぞ」と興奮しながら、ぬぷり! とゼリーの車体に右手を差し入れた。
ビクン!ぷるるん!
ゼリー電車がのけぞるように震えた。
エメラルド色に輝く電車にそのままえいやと踏み入ると、ひんやりとしたぷるぷる感に全身が包まれた。電車の揺れはすこぶる官能的かつ扇情的で、めくるめく愉悦の園を岸和田はひとり堪能した。
半時ほど移動する間に岸和田は五回ほど昇天し、そのうち一回はあまりの気持ちよさにあやうく本当の天国の階段が垣間見えたほどだった。
やがて、目的地の虫歯屋に到着すると、ゼリー電車の尻付近から「ちゅぽん!」という小気味よい音ともに岸和田は吐き出された。いくらか精気を吸い取られ、呆けたような顔をしているかと思えばそんなこともなく、ますますギラギラと冴え切って、全身をぬらぬらとしたゼリー状の汁でテカらせたまま、虫歯屋をぬめりと見上げた。
虫歯屋は、いわゆるありきたりなお菓子の家で、特におかしなところはないようだった。 壁や屋根はクッキーやウェハウスで出来ており、そこには生クリームやカスタードクリーム、あるいはチョコレートが塗りこまれていた。窓は透明な砂糖菓子で作られており、それほど見通しは良くなかったが、あちこちにカラフルな飴玉やドライフルーツのトッピングが施されているせいか、見た目が楽しげで、いかにも子供が喜びそうな雰囲気だった。
ウェハウスできたドアをあけ中に入ると、待っていたのはヨダレかけをした巨大な幼児だった。
「バァ~チュバチュバチュ~! お客チャン、虫歯になりにきたバチュねえ?」
岸和田は一瞬、モグリの虫歯屋じゃあるまいなと疑ったが、右目にあきらかな義眼が嵌め込まれ、斜視のように視点が宙をさまよっているその幼児の姿をもう一度じっと見て、「こんな町はずれのゴミ捨て場にでも捨てられてそうな人形のごときグロテスクな幼児がモグリなわけはないな」と一人納得し、頷くようにして言った。
「ああ、そうだ、虫歯を頼む」
「バァ~チュバチュバチュ~! おまかちぇくだちゃれえ〜! 今日はお客チャン、何本、虫歯にするバチュか?」
巨大な幼児は、右手に塩キャラメルドリル、左手にペロペロキャンディーを持ちながら、岸和田の顔を覗き込むようにしてたずねた。
巨大な顔に押しつぶされそうになりながらも、岸和田は体の底からみなぎってくる理由なき自信ゆえか、落ち着いてこたえた。
「そうだな……まずは一本、いや、一本では景気がわるいな。いっそのこと全部やってくれ」
「バァ~チュバチュバチュ~! かしこまり~! サービチュでオールC4にしちゃいバチュねえ~! ではお客チャン、その水あめのベッドに寝ちぇ、
お口をあ~んしてくれバチュかあ?」
岸和田は言われた通りに、蝿取りの粘着テープのようにベトベトしたベッドに横たわり、口を大きくあけた。
「あ~ん……」
ーーしばらく、治療が続いた。
塩キャラメルドリルやチョコレートドリルで歯のいたるところに穴をあけ、ジュースうがいと飲むヨーグルトうがいを何度も繰り返し、ケーキ、ガム、クッキー、ベビーボーロ、ウエハースと、歯にくっつきやすい甘いものをしこたま食べさせられて、砂糖漬けのようにして眠らされた。
「バチュっ!? そ、そんなバチュな……」
「どうしたんだね」
「お客チャン……酵素を宿しているバチュね?」
「酵素?」
「虫歯菌を食べちゃう酵素バチュね!」
「それは知らんが、わしは虫歯にもなれんのかね?」
「バ、バァ~チュバチュバチュ~! 心配ご無用! 今こちょこの元祖虫歯屋の秘奥義見せるときバチュねえ!」
言うが早いか、巨大な幼児は自分の右目の義眼をはずし、あっという間に岸和田の口の中に押し込んだ。
「あがっ!?」
「バァ~チュバチュバチュ~! かりこまり~!」
何をかしこまったのか、巨大な幼児は更に右目から義眼を取りだし、岸和田の口に押し込んだ。幼児の右目からは取り出しても取り出しても義眼が現れるようだった。
「これは最高糖度が3万を越えるこの八百万マホロビ家に伝わる秘宝の唖目玉(あめだま)バチュね! 最高に甘いくだものでも糖度は23ぽっちバチュからねえ~! これでお客チャン、きっと身も心も虫歯だらけになれるバチュねえ~!」
言いながら、巨大な幼児は矢継ぎ早に義眼を岸和田の口に押し込んでいった。
「あがぁっ!! あぐぅっわ!!」
「追加バチュか!? かりこまり~!!
バァ~チュバチュバチュバチュ~!!」
「ごぶぁっ!! ぐばぅっわ!! ぅぐごごぎぎゅあああ……!!!!」
やがて岸和田は白目をむいて昇天し、絶頂の果てで意識を失った。
「先生、岸和田さんが……」
「ああ、また逝ったようだね。いったん電脳プラグをリセットしてくれたまえ」
「はい」
身体のシルエットがはっきりと出るラヴァ―素材の白スーツをまとった若い女性がコンソールパネル付きカプセルに駆け寄り、操作する。
――ピピッ
カプセル内に横たわっていた岸和田らしい骨と皮だけの細身の老人は一度だけビクンと体を震わせたあと、安らかな寝息を立てて眠りについたようだった。
「あんなに白目をむいて、よほど気持ちよかったんだろうね」
「本当に幸せなことですねえ」
白スーツの女性が微笑みながら老人を見つめた。
「たとえ、寝たきり老人になっても、この『幸せ屋』に入所できさえすれば、いつでもどこでも好きな自分になれて、自由自在に仮想人生を楽しめる」
「本当にうらやましい限りです。人を最後の最後まで幸せにできる、この『幸せ屋』に勤めることができて、私も最高に幸せです」
「我々の使命はそれだけにとても重いがね」
「はい」
人工呼吸器を取り付けられ、安らかに寝息を立てている岸和田老人の目から水が一滴、人知れずこぼれ落ちた。
それが甘い水か、しょっぱい水かは誰も知らない。神すら、知らない。