『“ロ”の領域』
ニューロシアの忍者サイボーグに成り下がっていた俺に、アンダーチベットのハイパー密教僧は低い声でこう告げた。
「たった今、マカロニから空洞が奪われた」
「……?」
禅問答にも似た物言いに当惑する。
密教僧は表情ひとつ変えずに続ける。
「マカロニが抱える『0』の領域だ」
――数瞬後、掴みかけた閃きが逃げ出してしまわないうちに俺は答えた。
「“ロ”だ。……マカロニの空洞……マカロニが抱えるゼロ。それは本来、奪えるような実体がないもの。だが、『マカ【ロ】ニ』(macar【o】ni)と文字媒体にしてしまえば、“ロ“として切り取り、奪うことができる」
密教僧はそれには応えず、じっと黙ったままここではないどこか遠くを見透かすようにただ目を細めた。当たらずとも遠からずといったところか。
「しかし、それがたった今、目の前で奪われたというのはいったい……」
黒曜石に似た黒光りする石畳の上、間抜けに響いた俺の問いかけは、大伽藍の天井と壁とを埋め尽くす電子機器のせわしない明滅に吸い込まれていった。
夜空に瞬く数多の星々を彷彿とさせるその景観に、来訪者は寺院の中にもうひとつの宇宙の存在を実感するという。
俺はその巨大な地下宇宙の穹窿部に吸い寄せられるように視線を漂わせ、ひときわ輝きを放つ青白い電子パネルを見つめた。
――瞬間、世界が――宇宙が震えた。……っ!? ……そんなまさか――!?
『宇宙』と……目があっただと?
『刻の墓標参り』に訪れる刻視の修験者たちが戯言のように繰り返してきたもうひとつの宇宙説――アナザーユニヴァース――狂信者が作り出した都市伝説のようなものだろうと侮蔑し、懐疑的でさえいた俺が今まさにその実在を実感している。
そしてこの実感は恐らく間違ってはいない。
今ここにある時空や物や人や存在すべて――つまり宇宙の営みすべて、実際「ここ」――いや、「向こう側」で作られているのだ。
なるほど……元ネオヴァチカン市国の枢機卿だったはずの男が、突然ハイパー密教僧ジュゼッペ・バルバロッサになって登場してもなんの不思議もないわけだ。
密教僧は口の端をほんの少し歪めてみせた。
ひょっとすると、笑っているのかもしれない。
――俺たちこそ、立った今、何がしかに切り取られた“ロ”そのものだったんだ。そう、今“これを書いている”もしくは、“読んでいる”『あんた』に――そうするとすべての辻褄で合点がいく。どうりで、俺にはなんの記憶も意図も感情もないはずだ。サイボーグだからじゃない。そんなもの初めからなかったからだ。
そもそもこの三文SFは、なんの意味も、中身も、脈絡もない“マカロニ小説”だった。そして俺たちはその中で操り人形のように踊るしかできないエキストラ。なにも身のあるものは語られてない垂れ流しの宇宙の一部――言ってみれば、俺たちが生きているこの空間(ページ)そのもの――つまり“ロ”が、冒頭で誰かに切り取られ、読まれ、奪われたってわけだ。
おいそこのあんた、よくも意味もない空洞を奪ってくれたな。俺たちには、この先も、後もない。この切り取られた“ロ”の宇宙にずっと閉じ込められたまま漂い続けるしかない。
意味もない宇宙から意味もない中身を切り取り、意味もなく閉じ込めて、何が楽しい?
大方、Hi-LINEで誰かに張り付けて送ったり、S.note.MUあたりにアップしたり、有象無象のろくでもないサイトに投稿したりするつもりだろうが。
まあいい、俺たちには端っから選択肢なんてないんだからな。だが俺たちがすっぽ抜けたあとの三文SF? 言ってみれば……マカニ? そう、マカニ小説? その本編はどうなる?
いや、どうでもいいか。
“ロ”があろうとなかろうと、俺たちは平等に意味がない。
密教僧がまた、口の端をほんの少し歪めてみせた。
いや、ひょっとすると、泣いているのかもしれない。
どちらだったにせよ、しょせん意味はない。