東京夜探偵 1 百人町、大久保
東京の夜を徘徊するという夜散歩を夜探偵シリーズとして記事にしてみようかと思いつきました。これまでもときどき「東京探索記」シリーズで夜の街歩きを紹介してきました。ここからの分離独立です\(^o^)/
さて、第1回は新宿区の百人町から大久保にかけて歩きました。駅でいうとJR大久保駅、新大久保駅、そして地下鉄(都営大江戸線、メトロ副都心線)の東新宿駅あたりです。
大久保駅そばにある東京媽祖廟。
東京では普通にある外壁のビルの周りを見事に装飾しています。
横浜中華街にもありますね。あちらに比べると規模は小さいのですが、呑み屋などの飲食店が建ち並ぶなかに突然出現するのでびっくりします。
ここから職安通りに並行に走る道を歩きます。
裏通りなのでしょうが、コリアンやエスニックの飲食店が多く、人通りも多いです。
新大久保方向へ歩きます。中央線の高架をくぐり、山手線と西武新宿線の高架をくぐる。高架下の壁には壁画が描かれて無機質な印象を消してくれています。壁画?落書き?
ここからしばらくは職安通りに並行に走る裏路地的な道を進みます。この辺りは初めて歩いたのですが、飲食系の店とホテルが同居していて、その飲食店もちょっとこじゃれた店や韓国系の店が多く、若い人たちがそちらに出入りしながら、ホテル前ではあちら系の女性が立って通行人の男性に声をかけるという光景が見られます。ホテル前に立つ女性がいる街とエスニックの店が並び若者たちの賑わいが同居する不思議な空間。
そんな空間を抜けていくと目の前に現れるのが、軍艦マンション。以前昼間歩いた時のことを記事にしましたが、その夜バージョンです。
夜の軍艦マンションを見上げると真っ暗。すでに船員たちは翌朝に備えて就寝しているのでしょう。
正面にまわってみましょう。入口は開いていますが不審者がはいりこまないように?大きな顔の女性がこちらをじっと…
ここからは次のポイントへ。
現在は新宿イーストサイドとよばれていますが、歴史をさかのぼると明治時代になって大大名から華族となった前田家の邸宅に。その後、企業の所有を経て、戦後日本テレビの所有に。ゴルフガーデンとして長らく営業されていました。
都心の真ん中になぜゴルフガーデン?仕事帰り、呑みの帰りにちょっと打ちっぱなしで練習して週末のコースに備えるために歌舞伎町の裏にあると便利だから…というのはまあ結果往来的なものでしょう。
本来はこの地に日本テレビの電波塔、テレビ塔を建てる計画がありました。時は1968年。当時、日本テレビは麹町のテレビ局にある高さ154メートルの電波塔から発信していましたが、周囲に高層ビルが建ち、東京オリンピック(1964年)を契機にカラー放送が本格化すると、他局に比べて受信状態の悪さ、画質の劣化等が目立ち、遅れをとり始めていました。この時にはもう日本テレビ以外のNHK、民放の主要局は1959年に完成した333メートルの東京タワーからの送信に切り替えを完了していました。
ここで当時の日本テレビの正力オーナーが打ち出したのが高さ550メートルのテレビ電波塔の建設。その場所がいまは新宿イーストサイドとよばれているエリアでした。この発表を受けて今度はNHKが650メートルの電波塔を代々木の放送センター内に建てると対抗措置を発表。そして両テレビ局でのすったもんだの争い、言い合い。。。結局どうなったのかは、今の土地利用状況をみればわかる通り、正力松太郎の野望(夢?)は実現せず、1970年1月に日本テレビも東京タワーからの送信を開始することになり、550メートルのタワー構想は幻と終わりました。(*1)
さて、イーストサイドを出て隣の西向天神へ。
今宵は境内へははいらず、下から眺めるにとどめます。
西向天神前の道は蟹川支流の川跡。そしてもう一本先のカーブしている道が蟹川そのものの流路跡です。この流路に沿ってかつて市電が、戦後は都電と名前を変えて、走っていました。
今夜は、その都電跡の道をさかのぼり、歌舞伎町方向へ。
明治通りを渡ったところで蟹川は右へ、都電は左へと分岐していきます。
歌舞伎町では蟹川の跡は花道通りという名前になっています。
一方の都電の跡は「四季の道」という遊歩道に。
しかし、どちらにも行かずに花園神社へ。夜の神社は参拝客は少ないですが、ところどころに人が集まっておもいおもいに過ごしているようでした。
拝殿と背後の東急歌舞伎町タワーを収めて今夜は帰路へ。
(*1)出典元:「東京タワーとテレビ草創期の物語」北浦寛之著 ちくま新書(筑摩書房)