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太原豆腐雪斎

居酒屋の定番と言える料理に揚げ出し豆腐があります。
揚げ豆腐に出汁を掛けた料理。酒のお供ばかりではなく、ご飯のおかずにしてもよし。ということで揚げ出し豆腐を料理しながら、元祖黒衣の宰相と言うべき軍師を妄想した記録。


材料

木綿豆腐 2丁
茄子   2本
ピーマン 2個
茗荷   1本
生姜   半欠け
出汁つゆ 1カップ
醤油   大匙1
味醂   大匙1
片栗粉  適量
柚子胡椒 お好みで

今川義元、今はだいぶ再評価されているようですが、少し前は鉄漿をした公家趣味で馬に乗れず、輿で移動。信長にあっさりと首を取られてしまったという、あまり芳しくない評価がなされていました。
しかし実際には「海道一の弓取り」と呼ばれた優れた戦国大名。鉄漿や輿は身分の高さの象徴。
その義元を支えて、というよりも実際に今川家を引っ張っていたと言える存在が太原崇孚雪斎。
明応五年(1496)に今川家の家臣、庵原家に生まれましたが、早くから出家。九英承菊と名乗り、京都で修行。


豆腐をキッチンペーパーに包み、重しをして水切り。

優秀さを伝え聞いた今川氏親が都から呼び戻したと言われます。
五男、芳菊丸の教育係を務める。
氏親の死後、花倉の乱という家督争いが起こり、出家していた芳菊丸を還俗させて擁立。争いを制して義元となった五男を政治、外交、軍事とあらゆる面で支え続けて、北条、武田との三国同盟を締結。今川家の黄金時代を築いた軍師。
これが太原崇孚雪斎の略歴。


茄子は1/4に切り、切り込みを入れて、5分以上水に晒しておく。

弘治元年(1555)に60歳で死去。その五年後に桶狭間の戦いが起こり、今川義元は織田信長に敗れて、討ち死に。総大将が戦場で首を取られたというのは、義元以外では沖田畷で討たれた龍造寺隆信だけかと思われます。
これ以降、今川家は衰退の道を辿っていく。


ピーマン細切り。

雪斎が存命だったら、桶狭間の戦いは起こっていなかった。もしくは義元討ち死にという最悪の結果は回避出来たかもしれないという意見はよく聞くものです。


水切りした豆腐を程よい大きさに切る。

実は生きていたという話を聞いたことがあります。義元ではなく、雪斎は桶狭間の戦い時点、それ以降も存命だった?
ここから先は昔、雪斎の血を引いていると仰られていた方から聞いた話を元に膨らませた私の妄想をお話していきます。


野菜や豆腐に片栗粉を塗していく。

今川氏親は五男、芳菊丸が生まれる数年前から中風で寝たきりだったそうです。とても子が作れたとは思えず。つまり、義元は誰の子か?
芳菊丸は早くから雪斎に預けられて、京都の建仁寺で修行。
家督争いを避けるために弟は出家。よくある話であります。しかし、もし芳菊丸が雪斎の子となると話は違ってくる。
義元の生年は永正十六年(1519)ですから、雪斎とは25歳の年齢差。親子としても無理はない。
氏親の正室、寿桂尼は公家の出身。高い身分の家から迎えた正室が不義を働いたとなると、絶対に表には出せない醜聞。それを隠蔽する目的で義元は雪斎に預けられて、修行という名目で体よく都に追放?


油で揚げていく。

氏親の死後、長男の氏輝が家督相続。ところが急死。しかも同じ日に次男の彦五郎も死亡。あやしい。
これにより今川家の家督を巡る争いが勃発。有力な候補者は二人。
三男の玄広恵探、そして出家して梅岳承芳と名乗っていた芳菊丸。
二人とも出家していました。ついでに間の四男も出家していたものの、この争いには加わらす、僧侶としての本分を守ることにした?
恵探は兄ですが側室所生。承芳は正室、寿桂尼の子。
家臣団も二つに割れての内乱。これが花倉の乱。
恵探派は花倉城を拠点としたため、そう呼ばれます。


揚がったら、油を切る。

この乱について、私は違和感。
跡目争いとなれば、母親の出自が大きく物を言う筈。正室から生まれた方が有利。弟とは言え承芳が跡目を継ぐのが順当とも思える。兄とはいえ、庶子では分が悪い筈なのに何故、跡目を主張したか。恵探についた家臣がいたのも何故か?
結果から言えば、恵探派は敗北。つまり敗れた方の拠点を冠して「花倉の乱」と呼ばれている。歴史は勝者が書くものなのに敗者の拠点の名前を遺しているのも奇妙。


出汁つゆ、醤油、味醂を混ぜて、沸騰させて味醂のアルコール分を飛ばす。

今川家臣の間でも、恵探の方が氏親の血を引いているという話は流布されていたのではないか?
血統の正しさを守ろうとする家臣は恵探につき、血統に疑いを持ちながらも醜聞を表沙汰には出来ない家臣は承芳についた?
優れた交渉力や外交手腕を持っていた雪斎は北条氏の支援を取り付けて戦局を有利に展開。ついに勝利して承芳を還俗させて今川義元が誕生。


摺り下ろした生姜と刻んだ茗荷を添える。

我が子?を当主とした雪斎は今川家のために大活躍。氏親が制定した分国法「今川仮名目録」の改正、北条家に奪われた領地を武田家と結んで取り戻す。今川、武田、北条の三家がそれぞれの娘や息子達を縁組させることにより三国同盟を締結。このように政治と外交で活躍しただけではなく、軍勢を率いて出陣。
西の脅威である織田家と戦い、信長の庶兄である信広を生け捕り、この人物をカードとして織田に奪われていた人質との交換まで成し遂げました。


太原豆腐雪斎

衣から溶け出した衣がとろみとなり、豆腐や野菜に絡み付く。
揚げ出し豆腐にはししとうを使うことが多いのですが、今回は夏野菜ということでピーマンと茄子を使いました。
切り込みを入れた茄子はしっかりと火が通り、あんもよく沁み込む。
豆腐のタンパク質や野菜のビタミンも美味しく頂けます。
薬味とした茗荷には、ナトリウムを排出する働きがあるカリウム。これで高血圧やむくみも防止。活性酸素の働きを抑えるアントシアニンも摂取。
生姜と柚子胡椒の辛みもよく合う。

取り戻した人質とは、今川家に従属していた三河の松平家の竹千代。つまり後の徳川家康。
その才気を見込んだ雪斎は自ら薫陶したと言われます。
というより、私はそこからもう一歩、踏み込んだ妄想。
「三河、そして駿河も竹千代に譲るべし」と義元に進言。
自分の子、氏真がいる義元はそんなことが出来る筈もないと拒否。
「ならば、そなたは誰の子か?」
ぐうの音も出ない。それでも首を縦に振る訳にはいかない。
受け入れられないということから、雪斎は死んだことにして今川家から離れた。

武田の軍師、山本勘助は
「今川家は雪斎がいるからもっている」と言ったとか。
勘助は庵原家の親戚とも言われます。その縁から最初は今川家への仕官を望んだが果たせず。それでも長らく駿河に留まっていたのは庵原家や雪斎の親戚だったからと考えれば、うなずける。
勘助が言った通り、雪斎が去った後、今川家は凋落していった。
今川家を支えた?と言えるのかと思えて来た軍師、太原崇孚雪斎を妄想しながら、太原豆腐雪斎をご馳走様でした。

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