ニシン殿
魚屋にて鰊が大漁。
「鰊来たかと鴎に問えば、私ゃ発つ鳥、波に聞けよい」
と頭にBGM
ということで鰊を購入。
ニシン、二心ということで二心殿と呼ばれた最後の将軍を妄想した記録。
鰊 2尾(切り身にしてもらった)
大葉 3枚
胡瓜 1本
人参 1/3
玉葱 半分
ピーマン 2個
醤油 100ml
味醂 100ml
酢 50ml
水 200ml
塩 小匙1
胡椒 少々
片栗粉 適量
天保八年(1837)水戸藩主、德川斉昭の七男として江戸に誕生した七郎麿が後の徳川慶喜。
母親は有栖川宮の娘ということで徳川だけではなく皇室の血も引く、正にプリンスと呼ぶべきか。このことが後の行動に大きく影を落としている。
誕生した時から、斉昭は見所ある子と感じたようで国元の水戸で養育させる。
江戸の華美な風俗に染まらないようにという配慮。
武芸や学問だけではなく躾も厳しく。
寝相が悪いと困るということで、寝る時には蒲団の左右には剃刀。寝返りを打ったら血だらけになる仕掛け。
見所があると感じたのは父だけではなく十二代将軍、徳川家慶も自らの一字を与えて慶喜と名乗らせ、御三卿の一つ、一橋家を継ぐことを命じる。
これは慶喜を将軍候補にということ。
家慶の子で十三代将軍を継いだ家定は病弱で子も望めないということから、早くから将軍候補とされていたということ。
本人が聰明というだけではなく、皇室の血を引いていることも相応しいと思われていたのかもしれない。
後に将軍家茂と皇女和宮の婚儀が進められましたが、最初から皇室の血を引く慶喜が将軍になっていれば、一足先に公武合体が成っていた?
しかし本人は将軍就任には乗り気ではなかった。
「将軍になって苦労する位ならば、最初からやらない方がいい」と本人も語っていた。
才気ある人物だった慶喜ですが、出来ればそれを自分のために使いたかったのかもしれません。しかし能力ある者は周囲が放っておかないということか、好むと好まざるとに関わらず、政治の渦に巻き込まれていく。
父の斉昭は強硬な尊王攘夷派。その子である慶喜も攘夷派であり、開国を強行した井伊直弼と対立。
天皇の許しなく開国したことは、仕方ないが使者を送って説明すべきであると慶喜は主張。
開国などとんでもない。許しがたい愚行と怒るのではなく、あくまでも現実的な対処を望む。激情に駆られる訳ではなく冷静。
十四代将軍は紀州家の家茂に決まり、井伊大老との政争に敗れた慶喜は謹慎。
桜田門外の変で井伊がいなくなり、将軍後見職として幕政復帰。
文久の改革として参勤交代の緩和、京都守護職の設置、朝廷との折衝等、主に畿内で忙しく働く。
この頃、攘夷実行を含めた政治全般を従来通り幕府に委ねるか、幕府が政権を返上するかという二者択一を交渉。つまり大政奉還。
坂本龍馬よりも先に慶喜の頭にあった。先見の明。
言うことを聞かない長州へ征伐軍。ところがこの最中に将軍家茂死去。
三度目の正直というべきか、他に適任者なしということか、ついに慶喜が十五代征夷大将軍就任。
その後はフランスと結んで陸軍増強、横須賀造船所開設等の富国強兵策。つまり異国人を打ち払えという攘夷から開国派に?
この豹変ぶりから二心殿と呼ばれる。しかし攘夷実行のためには力が必要ということから、敵から学ぶということではなかったか。
この後、本当に行った大政奉還も単なる政権放り出しではなく計算ずく。
政治から遠ざかっていた朝廷は結局、統治実績がある德川家に頼らざるを得なくなる。そうなれば自分を含めた新たな政体に移行。いずれにしろ実権を握れる。
ところが徳川を潰して次代の権力を握りたい薩長は奇手。
少年の天皇(大室寅之助)を抱き込み、錦の御旗。
こうして慶喜は無理矢理に戦争に引きずり込まれる。
「最後の一兵になるまで戦うべし」と訓示を垂れた慶喜でしたが、僅かな側近と共に密かに大坂城脱出。江戸へ逃げ帰る。
総大将が不在の幕府軍、人数が多くても士気が上がる筈もなく、官軍を詐称する薩長に鳥羽伏見で敗戦。
口では徹底抗戦を叫びながら、あっさりと自軍を見捨てて逃亡。
ここでも変わり身の早い二心殿。
皇室の血も流れている慶喜はやはり、菊の御門が描かれた旗に弓引くことは出来ないと思ったか。或いは頭が切れ過ぎるために先が見えてしまったのではないか。
甘くてしょっぱくて酸っぱい味わいがしっかりと染み込んだ鰊。衣を付けて揚げてあるので崩れもない。たっぷりな野菜、特に胡瓜やピーマンという夏野菜が一緒に頂ける。
鰊からタンパク質やビタミンA、C、D。カリウムも含まれる。胡瓜にもカリウム。老廃物をしっかりと排除してくれる栄養素。
野菜たっぷりということは勿論、食物繊維もたっぷり摂取。
德川慶喜が将軍だったのは僅か一年。江戸城に入ったのも大政奉還後。
維新後は静岡で謹慎。趣味三昧の日々。
かっての家臣が訪ねて来ても面会を断った。
唯一の例外が澁澤榮一。
どうしてだろうと考えると、ダーウィンの言葉が思い当たった。
「強い者が生き残るのではない。賢い者が生き残れるのでもない。変化出来る者が生き残れるのだ」
これは進化論という生物全般だけではなく、人間個人にも当てはまる。
攘夷から開国、抗戦から恭順と変化を続けることで慶喜は生き延びた。
失敗はしたものの、武家政権から自分を含めた新たな近代政体へと日本國も変化させようとした。
澁澤榮一も幕臣だったが維新後には新政府に出仕と変化出来た。
自分と同じく変化出来る者ということで、慶喜は澁澤を好んだのではないか。
澁澤が慶喜の傳記を書きたいと申し出ると、慶喜は澁々ながらも口を開いた。
「嶋津久光は好きではなかった。鍋島直正はずるい人。長州は最初から敵だったから仕方ないが、裏切った薩摩は許せない」と語った。
明治の世を生き抜き、大正初期まで生存していた徳川歴代将軍でもっとも長命な七十七歳まで生きた德川慶喜を妄想しながら、ニシン殿をご馳走様でした。