オイッスターソースで炒めた厚揚げ。
題名の通りです。
短時間で作れる料理で、ほぼ肉食をしない私にとって貴重なタンパク源である大豆製品を料理しながら、昭和のお茶の間に家族を釘付けにした芸能人を妄想した記録。
厚揚げ 1丁
卵 2個
葱 青い所7センチ
胡麻油 適量
生木耳 1個
オイスターソース 大匙2
醤油 小匙1
味醂 大匙1
酒 大匙1
昭和六年(1931)東京府に誕生した碇矢長一が後のいかりや長介。
昭和十九年(1944)戦争の激化に伴い、静岡県に疎開。そのまま住み着く。碇矢家がいたのは墨田区でしたから、疎開しなかったら東京大空襲で命を落としていたかもしれない。そうなったらドリフターズも存在せず。人の運命はちょっとした選択で変わる。
終戦後、ハワイアンバンドを組み、音楽の道へ。
音楽を志したのは、女にモテるからという理由。
プロデビューを目指して上京。
小野ヤスシが所属していたドリフターズに加入。
!?
ドリフって長さんが作ったんではなかったんです。しかも始まりはバンド。
リーダー交代でいかりやがリーダーになると小野らが脱退。その後もメンバーの入れ替わりがありましたが、昭和四十年(1965)にいかりやをリーダーに加藤茶、荒井注、高木ブー、仲本工事というお馴染みのメンバーとなる。
クレイジーキャッツのハナ肇から「本名の長一は音が止まるのでよくない。長介にした方が、音がスケーと流れるから、その名前にした方がいい」
というアドバイスから芸名を「いかりや長介」とする。
ミュージシャン時代のハイライトはやはり、ビートルズの武道館公演で前座を務めたことでしょう。
いかりやはベースでしたが、当日、ビートルズメンバーの誰かと楽器がぶつかったが、向こうは謝りもしなかったと後年、語っていたのを聞いたことがあります。
音楽よりも話が面白いということから、女より男のファンが増えていったとか。話や寸劇の面白さからコメディ色が強くなっていき、草創期だったテレビ業界から引っ張られ、冠番組を幾つか持つように。
このようにして、ドリフターズは音楽からコメディへと軸足を移していく。
そして伝説の番組
「8時だよ全員集合」
土曜夜8時に毎週、生放送というコントを主体とした番組。
「オイッス」といういかりやの挨拶は今でも耳に残っています。
もう一つ、いかりやの決まり文句で忘れられないのは主に「ドリフ大爆笑」で言っていた「だめだ、こりゃ」
荒井注が脱退後、正式なメンバーとなったのが志村けん。天性のコメディアンと言うべき志村の加入により、ドリフは完全にコントグループになったと思います。
お笑いとは一過性のものが多いと私は思っています。一度、見たら、次はどうなる、誰が何をするか記憶してしまうので、二度見てもそんなには笑えない。しかしドリフのコントは例外。何回見ても笑える。これは練り上げられているからでしょう。
一時代を築いた「全員集合」ですが、裏番組の「おれたち、ひょうきん族」が人気となり、それに押されるように終了。
その後、いかりやは俳優に転身。
大河ドラマ「独眼竜政宗」に鬼庭左月役で出演。2時間ドラマの主役等もこなしましたが、俳優としての代表作はやはり「踊る大捜査線」
映画化もされたこのドラマで、いかりやは定年退職間近の和久刑事を演じました。
演技は主演の織田裕二によく教わった。自分の演技は織田流だとよく語っていました。
「踊る大捜査線」の現場では、年長者らしい気配りを見せていた逸話があります。
当時、新人だったユースケ・サンタマリアを
「こいつも紹介してやって下さいよ」と取材メディアに売り込んだとか。
役柄上、何となく湾岸署の面々とは距離を置きがちになっていた室井管理官役の柳葉敏郎に声を掛けてよく話相手になっていた。
映画化された「踊る大捜査線」で第22回日本アカデミー賞最優秀助演男優賞を受賞。
プライベートではアフリカ旅行を趣味としていて、芸能界きってのアフリカ通。
ほぼ毎年、アフリカを訪れて、現地の人々とも積極的に交流。
失礼ながら、ゴリラと綽名されることもあったいかりやのイメージにはよく合っていたかも。
厚揚げにオイスターソースベースのタレがよく沁み込んでいる。
大豆由来のタンパク質に加えて、卵のタンパク質も加わり、正に高タンパク食。
葱のアリシンで食欲増進で箸が進む。
木耳の食感もいい感じ。
平成十六年(2004)はドリフターズ結成40周年でした。
その年の3月、癌の転移により享年73歳にて、いかりや長介は逝去。
バンドマンからコメディアン、そして俳優と三変化を見せながら、多くの人々を楽しませた、いかりや長介を妄想しながら、オイッスターソースで炒めた厚揚げをご馳走様でした。