青椒マコモ武田勝頼
マコモダケを頂いた。
ドコモダケとどう違うと下らないことを考えながらも、シャキシャキ食感を生かす調理をしつつ、偉大な父親を超えられず、よろしくない評価に長年、さらされてしまった戦国武将を妄想した記録。
マコモダケ 2本
大豆肉 好きなだけ
ピーマン 3個
大蒜 1欠け
生姜 1欠け
オイスターソース 大匙3
醤油 大匙1
胡椒 少々
天文十五年(1546)に誕生した武田信玄の四男、四郎が後の武田勝頼。
生まれる前から家臣団に賛否両論を呼ぶ存在。どういうことかというと、母親は諏訪御寮人と呼ばれる女性。
諏訪大社の大祝であり、国人領主でもあった諏訪頼重の娘。
信濃へ侵攻した信玄は諏訪氏を滅ぼして、所領を奪い、美人の誉高かった娘を側室に迎える。
滅ぼした敵の娘であり、寝首を掻かれる恐れありとして反対する家臣がいたのも頷ける。
信玄は色香に迷ったのではなく、思惑あり。
自分と諏訪御寮人の間に男子が生まれれば、その子に諏訪氏を継がせて諏訪支配を円滑に進めたいとの考え。
その思惑通りに誕生した四郎は勝頼と名乗り、諏訪家を継ぐ。
武田家の跡取りは長男の義信と定められていたのですが、思わぬ異変。
今川領侵攻を巡って、信玄と義信の意見が対立。
義元死後、急速に弱体化する今川家の領土を取るべしと信玄は考えるが、義信の妻は義元の娘。妻の実家と戦うことは出来ないと反発。
父子相克の末、義信は自害させられる。
ここで信玄の後継問題浮上。
次男は盲目で出家。三年は早世ということから、四郎が跡継ぎとして急浮上。
信玄も勝頼が跡を継ぐと家臣団が割れると考えたのか、自分の跡は勝頼の子、信勝が継ぐとして、勝頼は信勝が元服するまでの陣代、つまり後見たるべしと遺言。
しかし勝頼は父の死後、自分が武田家を継ぐことを宣言。
元服前の少年が当主では心許ないと考えたのでしょう。
武田四郎勝頼となったのですが、彼には官職名というものがありません。○○守とか○○太夫というやつ。
父の信玄は大膳太夫だったのですが?
甲斐武田家は新羅三郎義光の子孫、源氏の名門。血統はかなりいいのに朝廷から官位や官職はもらっていない。実は信長の嫌がらせ。
足利義昭を奉じて入京した信長は幕府や朝廷に、勝頼に官位等を授けないように働きかけていました。
信長、その忠実な同盟者だった家康に対抗していた勝頼。
東美濃の明智城等の織田方の城を次々に陥落させ、偉大な父、信玄が落とせなかった高天神城も落城させて、徳川領に楔を打ち込む等、戦には強い。
徳川方に付いた長篠城の奥平信昌を成敗するために三河侵攻。これがきっかけで起こったのが長篠の戦い。
織田、徳川連合軍に大敗。信玄以来の重臣達も討ち死に。ここから下り坂。
痛手を蒙った勝頼、独力で織田、徳川に対抗するのは難しいので近隣大名との同盟を模索。
北条家との同盟強化のために北条氏康の娘を勝頼の継室として迎える。
この同盟は思わぬことから破綻。
上杉謙信の跡目争い、御館の乱に勝頼は介入。
これは謙信の跡継ぎ候補、景虎が北条家出身だったので、同盟の友誼としての支援。の筈だったのですが、景勝側から領土の割譲と大量の金の贈与を持ちかけられて、勝頼は一転、景勝側に味方。
この結果、景虎は自害。当然、この背信行為に北条家は怒髪天。同盟破棄。
金と領土という目先のことに食いついてしまった?
景勝に自分の妹を嫁がせて、上杉家と同盟。共に信長に対抗しようと思っていたのでしょうが、御館の乱での家臣団分裂で上杉家も期待した程、当てになりそうもない。
ついに織田家との和睦を模索。甲江和与(こうごうわよ)と呼ばれる動き。
甲斐と近江、つまり武田と織田(当時の信長の居城は近江の安土城)の和平交渉。ところが信長はまったく相手にせず。
その内に高天神城が徳川方に奪い返される。どんどん追い込まれていく。
勝頼は新たに新府城を作り始める。
それまでの武田家の本拠、躑躅ヶ崎館を離れ、新たな防衛拠点、そして家臣団集住を進めようとしたのでしょう。
度重なる戦、それも負けが込んでいたので財政悪化。築城費用の負担が家臣や領民に大きな負担。家中からも不信や不満の声が上がり始める。
弱り目に祟り目とはこのことか。
青椒肉絲のまがい物?
本当は筍を使いますが、マコモダケを使用。シャキシャキした食感は遜色ない。基本的に肉食をしないので大豆肉使用。
マコモダケはイネ科の植物ですが、食物繊維豊富。ビタミンB1,B2、鉄分やカルシウムも含まれる。
血圧や血糖値を低下させ、のーへる賞を貰った輪苦珍よりもずっと免疫力を強化してくれる。
長篠の戦いから7年。
ついに信長は武田領への侵攻を開始。
木曽義昌、穴山梅雪、小山田信茂等、裏切り続出。勝頼は味方からも追い詰められてしまう。
そればかりか天にも見放されたかのように浅間山噴火。
この時代の人々は、天変地異は為政者の不徳が原因と考える迷信もあった。
勝頼本人もそう感じたかもしれない。
息子の信勝が元服を済ませていなかったので、主従で儀式を済ませた後、天目山にて自害。最後まで従っていたのは40人あまり。
勝頼の首級と対面した信長は
「勝頼は運がなかった」と言った。
運というよりも、首尾一貫していなかったことが破滅の原因かもしれません。
御館の乱で景虎を徹底して支持していれば、北条との同盟は堅持され、上杉の跡を継いだ景虎も強力な味方になったことでしょう。
高天神城を奪い返されたのは、勝頼が援軍を送らなかったから。これも家臣団に不信を抱かさせた。
その場凌ぎの判断ミスを重ねたことから残念なことに家を潰してしまったと言える。
追い込まれていくと知恵の鏡も曇るということかもしれないと、武田勝頼の悲劇を妄想しながら、青椒マコモ武田勝頼をご馳走様でした。