だ伊豆守ボール
昔、NHKで放送された大型時代劇、池波正太郎原作の「真田太平記」の中で渡瀬恒彦演じる真田信之は「豆州」と呼ばれていました。
これは伊豆守からきた呼び名。大河ドラマ「真田丸」でも父の昌幸にそう呼ばれる場面。そんなことを妄想しながら、豆腐作成の副産物を料理した記録。
豆腐作成については、こちらをご覧下さい。↓
豆腐作った後に残るおからを今回、団子にしてみたということ。おからは大豆から出来ているので、だいす、だ伊豆ということ。
おから 約300グラム
葱 半分
山芋 150グラム
片栗粉 大匙2、小匙1
醤油 大匙3
味醂 大匙3
ケチャップ 大匙2
信濃国発祥の真田家ですが戦国期、領地の大半は実は上野の北部、吾妻郡と利根郡。沼田領と呼ばれた地域ですが、ここは真田家が自力で獲得した領土。主に此処を守る役割を担ったのが真田昌幸の嫡男、真田信幸。
弟の信繁(幸村)が大坂の陣で奮戦し、真田の武名を大いに高くしたのに対し、兄の信幸は真田家を後世に残すことに貢献。
天正十年(1582)は真田家にとって激動の年。三月に主君、武田家が滅亡。新たに従属した織田信長も6月に本能寺の変で急死。旧武田領だった信濃、北上野に徳川や北条という大勢力が進出。天正壬午の乱と呼ばれる状態。その渦中に置かれた真田家。対北条の最前線で信幸は奮戦。沼田領を守り切る。
やがて秀吉に従属すると、真田家にも官位と官職が与えられる。
父の昌幸は安房守、弟の信繁は左衛門佐、信幸は伊豆守に任官。これにて真田伊豆守信幸となる。
又、真田家は徳川家の寄騎という位置づけとなり、繋がりを深めるために本多忠勝の娘、小松姫が家康の養女として信幸に嫁ぐ。
小松姫については、以下をご覧下さい。↓
この婚姻が信幸の運命に大きく関わってくる。
慶長五年(1600)に徳川家康が会津征伐の軍を起こすと、真田家はそれに従い東へ。しかし途中で親子間紛糾。というのも、家康不在を狙って西で石田三成が挙兵。
信幸の妻は徳川の養女、しかし信繁の妻は大谷吉継の娘。吉継は三成の盟友。武家の婚姻は政略であり、こういう時に味方を増やすためのもの。こうなると真田家はどちらに付くべきか。
進軍途中の下野国犬伏で親子会議の結果、父の昌幸と信繁は西軍に味方するために引き返すことに。信幸はそのまま徳川側に残る。意地の悪い見方をすれば、どちらが勝っても真田の家名は残るという生き残り戦略。
結果、引き返した家康率いる東軍が関ケ原で勝利。ただ、真田家は誰もそこにはいませんでした。
昌幸、信繁は上田城に籠城。信幸はそれを攻める徳川秀忠軍の中。親子で城の内と外で戦うことに。
関ケ原で西軍が敗れたので、それに与した真田家は存亡の危機。昌幸と信繁は処刑されてもおかしくない所でしたが信幸、その岳父、本多忠勝の嘆願もあり、流罪で済む。
この時に、徳川方であることを明確にするために信幸は信之と改名。
幸の字は真田家の通字。それを捨てた。
と思われるものの、これ以降も時々、信幸と署名した文書が存在。単に間違えたか、真田の心は捨てていないということから意図的にやっていたか?
やがて起こった大坂の陣。弟の信繁(幸村)は大坂方で獅子奮迅の活躍。
兄の信之は病により参陣せず、息子達を遣わせる。弟と戦うのが忍びない?
戦国の総決算と言うべき、この戦の後、元和八年(1622)真田家は信濃松代に転封。居城の上田城から引き離すための幕府の嫌がらせと見る人もいるようですが、そうは思えません。松代は川中島。此処は武田信玄と上杉謙信が何度も戦をした要地。そこを任されたということは、それなりの信頼を得ていたと思えます。それに既に信之は上田城を破却済。真田家を守るために断腸の思いで父が心血注いだ城を壊したことでしょう。
松代に移った後も沼田領はそのまま飛び地として残され、真田家の身代は十三万石。
信之は病勝ちだったとか。それでも人間五十年と言われた時代に50どころか80過ぎても健在。
長寿ではあったものの妻の小松姫、長男にも先立たれ、幕府に隠居を願い出ても幼少の四代将軍家綱が成人するまではと慰留され、ようやく隠居が認められたのは91歳の時。
次男に家督を譲って隠居したものの、その次男も死去。この時に真田家はお家騒動。長男、信吉の次男、つまり信之からは孫に当たる沼田城主、伊賀守(実名は信利?信直?)が松代藩の相続権を主張。
老いてもなかなか楽隠居とはいかず。
詳しくはこちらを御覧じろ。↓
ケチャップベースのソース、煮絡めてもいいかと思いましたが、山芋を繋ぎとしていますが万一、だ伊豆守ボールが崩れると嫌なので、後がけにしました。
割と淡白な味わいのだ伊豆守ボールにケチャップ味がよく合う。
タンパクなのは味だけではなくタンパク質もたっぷり。葱に含まれるアリシンが食欲増進させて、幾らでも食べられる。
結論、ミートボールよりもだ伊豆ボールである。
隠居の身ながらも老体に鞭打って、信之はどうにかお家騒動に決着をつける。その後で万治元年(1658)に死去した時には93歳になっていました。
近しい人々がすべて去った後も、幕府からの信頼も得て、真田の家名を残すことを第一義に長く生きた真田信之を妄想しながら、だ伊豆守ボールをご馳走様でした。