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塩麹ナムルキャベ津田信澄

韓国の食堂では、キムチやナムルは無料と聞きます。随分、昔に行ったけど、そういえばメインの前に、そういう物がやたらと出て来た気がする。
ナムルとは野菜を塩や胡麻油で和えた料理。
塩麹で似た物を作りながら、あまり知られていない信長の親族を妄想した記録。


材料

キャベツ  半分
塩麹    大匙3
胡麻油   大匙1
白知り胡麻 たっぷり
酢     大匙1
唐辛子粉  小匙半分

織田信秀と土田御前の間に生まれた信長には同母弟。織田信勝、もしくは信行。
二人いたという意味ではありません。何故か実名が二つ伝わっていますが同一人物。
若い頃からうつけ者と呼ばれていた信長に対して、弟は行儀よく、真面目。
母親の土田御前は信長よりも弟を偏愛。弟に織田家を継いで欲しかったようです。
弟も母に気に入られていることや、兄がうつけでは領地を守れないと不安になったのか、信長に反旗を翻す。
ところが信長は単なるうつけではなかった。敗れてしまう弟。
ここで妄想するに、弟の名前は元々、信勝だったのではないか?
敗れた時に信長に命令されて信行に改名させられた?
「そなたは名前が悪い。信長に勝つという名前を捨てて、信長の言うことを行う、信行にせよ」
そんなことを言われたのではないか?


ザクザク切るからざく切り。

ところがまたしても謀反を企む。それを信長に密告したのが柴田勝家。
後年、信長の下で活躍する勝家は元々は信勝の家臣。名前がそれを示しています。信勝の勝を頂いて、勝家だったと思われる。
その勝家も信行に愛想が尽きたのか、信長に付く。こうして弟の運命は極まる。
信長が寝込んでいると聞いた信行は、清州城へ様子を見に来る。これが罠。
信長が放った刺客により、信行殺害。


キャベツを茹でる。

信行には遺児。柴田勝家が養育。これは信長のお声がかりだったようです。
大胆なことをしますね。自分が殺させた弟の子。成人したら自分に牙を向けてくる恐れが多分にある。
平清盛が源頼朝を助命したために後々、自分達に反旗を翻したということを知らない訳はないのに。
殺した弟の子まで殺すのは忍びないと思ったか。それに遺児はまだ幼児。物心もついていない。自分の甥という立場ならば、温情をかけて育めば、自分のことも理解してくれて、織田家のために役立ってくれるのではないかと賭けに出たのか。


茹で上がったキャベツの水気を絞る。

織田信勝(信行)の遺児、成人した後に名乗った名前が津田信澄。
織田ではなく津田と名乗ったのは、自らの出生を知り、ヘリ下ったか?父のような野心はありませんよという意思表示のために、敢えて織田姓を捨てた?織田一族では本家ではなく傍流が津田姓を用いることがあったようです。信澄もそれに倣ったか。
また、一時は近江の浅井家遺臣、磯野員昌の養子になったことも。
自身が複雑な立場にあることを自覚していたのか。


塩麹、胡麻油、白摺り胡麻を混ぜる。

天正三年(1575)に養父、磯野員昌と共に一向一揆征伐へ。これが初陣と思われる。実は信澄の生年はよくわかっていません。ただ、信長の長男、信忠とほぼ同世代ではないかと推測されています。
一向一揆勢力との戦いでは、越前の一向宗勢を5,600人斬ったと言われています。
宣教師ルイス・フロイスは
「この若者は異常な程に残酷で、誰もが暴君と見て、彼が死ぬことを望んでいた」と評価。
他にも「甚だしく勇敢で残酷」とか罪人を馬に踏み殺させたとかいう逸話もあり。


味にパンチを持たせたいので、唐辛子粉と酢を混ぜることに。

いくら戦国時代の武士とはいえ、人殺しが過ぎる酷薄な人物。というだけではなく、これはもしかしたら信長に気に入られるために気張り過ぎたのではないかとも思える。
石山本願寺攻めや荒木村重討伐なと、多くの戦にも従軍。
大津城主や大坂城代にも任じられましたが、これもそうした実績が信長に認められたが故。
そして、明智光秀の娘と婚姻。織田家でも出世頭だった光秀との縁組。それだけの期待と信頼を勝ち得たことになる。これが後々、運命に大きく関わることになろうとは。


塩麹ナムルキャベ津田信澄

茹でたキャベツが柔らかく、瑞々しい。そこに塩麹が絡むことであたかも発酵したかのような食感と味。唐辛子と酢が味を引き締める。やはりこれらを加えたのは正解。
胡麻油の香ばしさが食欲を搔き立てる。
キャベツのビタミン、唐辛子のカプサイシンが脂肪燃焼。ダイエットにもよいかも?

天正十年(1582)三月に甲州征伐が始まるが、信澄は信長直属で参陣。傍近くに置かれるということは、完全に信頼を勝ち得たということか。
その後、四国の長曾我部家と織田家の関係が悪化して四国征伐の準備が開始され、信澄も渡海準備に入る。
信長の三男、信孝が大将。丹羽長秀、蜂屋頼隆と並んで信澄は副将に。
着々と準備が進んでいる時に起こったのが、本能寺の変。
信長を討ったのが、舅の光秀。
しかし、信澄はこれに加担していた訳ではないし、四国征伐の準備に掛かっていたので事前に知らされてもいなかったことでしょう。
それでも、信孝や丹羽長秀らは疑心暗鬼。ついに信澄を攻撃。
本能寺の変の三日後、六月五日に討ち取られる。生年が不明なので、享年は25歳とも28歳とも言われます。
優秀だと思われたが故に、信孝は信澄が織田家の家督を奪うのではないかと思ったのではないか。それ故に証拠もないのに光秀の婿だから怪しいという口実で葬り去った?墓も法名も伝わっていない津田信澄を妄想しながら、塩麴ナムルキャベ津田信澄をご馳走様でした。

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