インド哲学と祖父との思い出
※今日の投稿は戦争のお話を含みます。
戦争を肯定するものではありません※
いつも投稿を読んで下さっている皆様、
ありがとうございます🙏
こちらのInstagramは、なんと言いますか
あまり【お店】ぽくない投稿ばかりで
ブログのような
日々、思い感じた事を綴っております😊
それが何かに繋がり
良い方向に向かうキッカケとなりましたら
幸いです🙏
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家族で年末ご先祖様のお墓参りへ。
私は家族、親戚と仲良く本当によく話をするのですが
何となく
インド哲学の
トリグナに通じるなぁ、と思った思い出ばなしを😊
トリグナとは
・サットヴァ(平和、平穏、思いやり、優しさ)
・ラジャス(激性)
・タマス(怠惰)
という、3つの心の性質を表しており
インドの哲学書
バガヴァットギーターの始まりも
戦地で親しい方達と争わなければいけない
アルジュナの苦悩から始まります。
その話とリンクした祖父の話。
もう20年以上前に他界した祖父は
10代の頃
岡山の山奥の田舎暮らしで
極貧の生活から口減しとして蟹工船に乗り
結核の誤診で新潟の知らない土地に降ろされ
岡山へ戻り
結婚をして、子供を3人残し
戦地の満州へ行き
終戦と共に岡山へ無事に帰ってきました。
その後はまた1人子供が生まれ
事業で成功し
生活も安定していましたが
成人し事業を一緒に営んでいた息子を
ある日突然交通事故で亡くしました。
畑で育つ野菜を見ては
食物は育つのに、息子は…
と泣いていた背中が
私の母は忘れられないと言っていました。
町内の人には
時に無言で軒先に食材を置いて帰り
売れ残った商店のパンや果物は
売り上げになるからと
全て買い
亡くなってからも町の方からも
仏様みたいな人だった、と
言われておりました。
その達観した表情は、
いつも穏やかで
笑顔でただニコニコ笑っている人でした。
何をやっても笑顔で
黙って人に与え
人に尽くす人でした。
幼少期
カップラーメンを食べた時だけ叱られたかな。笑
体に悪いから、と。
子供の頃、戦争の話は聞いても笑顔で黙り
一切語りませんでしたが
母曰く
子供にも怒らない祖父が
一度だけ他人に苦言をする姿を見たと言っていました。
終戦後、偶然出会った
どうも戦地で不当なせっかん【暴力】を
相当していた人だったとのことでした。
(肯定はしませんが、
戦争は極限の心理状態になると予想するため、
そうならざるを得なかった理由もあったのかもしれません)
その祖父の口癖は
いつも
【えー、えー(岡山弁で、いいよいいよの意味)】と
【ありがとうなぁ】と
【人に見返りを求めるな】だけ。
他の言葉はあまり覚えが無く。
いつも微笑んで
ほぼ発していなかった。笑
戦地で相当な思いと
見たくない人の争いを見てきたのだと思います。
苦しい思いを繰り返し
極限までいったのでしょう。
祖父は
色々なものを経験して悟り切ったあと
なんでも
【生きていたらいい】
【元気だったらいい】
の意味で
いつも
【いいよいいよ☺️】と言い続けていたのだと
今は家族と話しています。
祖父だけではなく
当時、こんなご経験をされている方は
たくさんいらっしゃったと思います。
その時代の方は
なんと言いますか
心根が優しくて
人の気持ちがよくわかり
助け合い
あたたかい人が多かった。
話すとホッとする方が多かったように思います。
グルの元でインド哲学を習い
トリグナを教えていただき
【ラジャスに行き尽くしたらサットヴァにいく】の
教えはこんなところにあるのかな
と日々思い過ごしています。
私達も生きている限り
避けては通れない事が
色々とありますね。
ベストセラー
五木寛之先生の大河の一滴で
とても好きな言葉があるのですが
【究極のポジティブは、
究極のネガティブから生まれる。】
生きていれば
なんで私だけ
とか
なんでこんな事ばかり
と、全て投げてしまいたくなる事もあります。
だけど
いつかは
波だった水面が落ち着くような
平穏な心の境地に行き着く。
そのために
学び
行い
赦しを続けていく。
時代も変わり
考え方や在り方も様々ですが
新時代になっても
真理はそう変わらないと思います。
最後まで読んで下さり
ありがとうございました🙏
Radhe Radhe🪷