私は自分に酷く厳しいところがあるので、時々泣いてしまうんです。
ぽろぽろと涙をこぼしたりするんです。
何かにおいて無力である事にも勿論意味があるので、仕方がないとわかってはいますが、胸を通り過ぎる風が、喉や鼻の奥の奥を締め付けて、辛くなるのです。
でも面白いのが、そうやって辛さを感じると、すかさずもう一人の私がやってきて「私は私とずっと一緒だから大丈夫だよ。」と励ましてくれるんです。
そしてまた別の私がふとやってきて、入れ替わり立ち代り、泣いている私を励ましにくるのです。
次第に「いや、ありがたいけれど、もう少し静かに泣かせてくれてもいいのでは?」なんて思ったりする程には元気付けられます。
そうなると最後に「そのくらい図太ければ大丈夫だねえ」と大笑いされて終わるんです。
気づけば私はなんだかどうでも良いような気がして、楽観的で元気になっているのです。
実は私、この状態を【病気】と診断された事がありまして。笑
なんていうか、その病気なら病気でも良いのですが。
当時はかなり精神的にも不安定でしたから。
でも、誰しもこうした自浄作用のような力を持っているものだと、私はそう思っているんです。
、、、私が病気ということでも特に気にしないのでいいのですけれど。
気付いているかいないかは、置いておいても、人は自分で自分を元気にさせたり励ましたりする力を持っている生き物だと思うのです。
そしてそのその力というのは【魂】にある力なのですよね。
そう思って生きています。
私の場合はあたかもそれを別人格のように語ってしまうので、乖離が酷いと診断されてしまったのですが。
説明が難しいですよね。
そういうことではなくて。
【そもそも私という存在は、私でありながら、私そのものだけではない】のです。
↑これがどうしても理解されにくいのですが、占いや神秘に触れる方々には理解されると思っています。
つまり、魂が共にあるという事なんです。
私と共に、感情を引き起こし、私を生かす、私の大元の存在があるのです。
魂は私の大元ですから、私について知らない事なんて無いのです。
ハイヤーセルフは私を全て知っています。
ですから元気付けることなんて簡単にできるんです。
これが自浄作用ですよね。
ですが、、、私自身は私という魂について知らない事が沢山あるんです。
これが、苦しみや無力さを感じる原因でもありますよね。
魂の意志や意図を理解していないとか、思い出していないとかそういう部分が多いと、苦しくなってしまうんです。
私の場合は魂が、ある部分において厳しい状況の中でも多くを学ぶと決意して生まれて来たのですが。
にも関わらず、それを思い出せない人生だったので、冷静に学ぶ事ができずに、もがいてもがいてただ苦しんでしまっていたという時期がありました。
経験が何にも活かされずにただ削られて苦しかった時期です。
でも魂の意志って、小さな時から色々な場面でメッセージを送っていて、目や耳によって刷り込まれていたりするんです。
それに対して「え?もしかして?」と気付くとバラバラだったことが繋がって、やっと人生が始まるといいますか、徐々に居場所ができてくるようなものだと思っています。
そしてですね、私というここに居る存在は、私の魂の一つの側面であり、一つの人生であり、一つの人格なわけです。
つまり、私だけでは、魂にはなり得ないということ。
魂は私の全てを持っていますが、私は魂の全てをここには持ってきていないんです。
だから、魂は私に対してそれを思い出すようにいつも感情を揺さぶるのです。
これはいや。
これがすき。
こうしたい。
どうして。
気付いて。
自分には、目的があるよ。
私は目的に気付きだして、歩いていくことで、生きるということがよりリアルになったと思っています。
心を動かされる事というのは、重要なことなんですよね。
それがメッセージそのものなのですよね。
更にいうと、私が私を励ますときに出てくるあの自分たちは、過去の自分の姿なのだと思います。
私の魂が経験した人格たち。
私の魂の大事な人生たち。
母なる私の魂は、知っているんですよね。
その人生たちがあって、今の私が居るんです。
勿論、私は血縁によって紡がれてきた命でもあります。
大事な家族たちが守ってくれた命です。
ですがそれだけではないんですよね。
私が私としてここまで何度も生き続けてきているんです。
それに気付くということは、とても大事な事だと思います。
気付いた瞬間、彼らの愛が一気に自分に流れ込むのがわかるはずです。
一人ではないということ。
私が私をいつも見守っているということ。
自分を愛するということは、彼らの存在に気付く事でもあるのかもしれません。
自分と共にある、唯一無二の存在。
魂。
なによりも、だれよりも、この人生を、この私を愛してくれている存在です。