精神病患者の独白、並びに前回の補足。
お久しぶりです。
記事同士の聯絡は無いほうが良いと知っている。
精神病に罹るということ
自らの経験からの精神病に関する思索。(とある鬱病患者の視点)
一般的なことではない。
ドラスティックな変化
鬱病になって、信条が劇的に変わった。
それは所謂"多感な時期"と銘打たれた、心身の発達時点において精神を病んでしまったからだろうか。
客観的には私は19歳の頃に大鬱病と診断され、今は寛解ともとれる容態にある。主観的には希死念慮と罪責感を伴う気分の抑鬱が、17歳の頃から顔を覗かせていた。
この仄暗い体験の下で、私の生死観や価値観を含む信条に緩やかで、然し劇的な変化が起きた。
それまで外界からの啓示のみで転遷してきた信条が徐々に;質量により空間の曲率が与えれるように、内在により歪められてきたのだ。
※ここでいう歪みは必ずしも間違った方向ではないことに注意されたい。
これは、普通の思春期にも訪れる信条の変化なのか。私を取り巻く環境と似た人が周りにおらず、コントロールがいないため定かではない。けだし鬱或いはその気質が影響しているであろう。これは、(後で見るが)変化の方向が厭世的であることから推定される。
また、信条、定見、確信、或いは考えの根の変化は不可逆過程である。一般的にはその限りではないのだが、こと私の経験した病的な変化では永劫の変化に感じた。これは個人的な直感を徴証とする。
一つ考えられることは、今の信条は環境に適応した結果であり、少なくとも今の環境に在るからには変化はあり得ないということだ。
こういった主観的事実から私は、精神病(鬱病)は恒久的に暗い価値観を植え付けられる病気と考えた。
ストレートな考え
ここで言うストレートとは;容喙や介入による歪みがない、というつもりだ。自身の純一無雑、自由で素直な考えとも言える。
ここでは、私の以下の定見の変遷を見てゆく。
生きる理由。
死後について。
また、生死というセンシティブ或いは、ナイーブな議題を含むが、これは他人の生死についていかなる影響も与えるつもりはないし、自身についても自殺を仄めかす内容ではないことを念頭において欲しい。
生きる理由。;生きる理由について鬱が悪かった時期のTwitter(現:X)にはこう書いている。
アカウント名を隠すため、内容は少し改変しているが概ね生きる理由についてのて意見がここに顕れている。
要約すると、生きる動機は他人の要請であり自発的なものではないし、自身も他人に生きることを求めている。これは今とも変わらないが、今では自身の快楽のために生きるという目的も考えに追加している。この考え方により自身は人生が楽しくなくなった場合死を選ぶことが、自己中心的ではあるが比較的容易な選択肢として挙げられるようになった。
死後について。;死後については私は単純な所見しか持ち合わせてはいないが、高校の頃から根付いた定見なのでここで取り上げる。
自身は死後には何もなくただ意識がなくなるものだと考える。これは自身の死後悵恨を抱く存在を認知することができないので、「周りの人に迷惑をかけるぞ!」や「悲しむ人がいる!」などの声は私の自死を止めることはできない。だが今は生きていて艱難辛苦が日常ではないので死ぬことは考えていない。
帰着
今回の記事では自身の体験に基づき、精神病に罹るということの差し響きを考えた。また自身の少し厭世的な定見或いは信条も映した。
自分以外の人の価値観の変遷を見たことがないので、標本の追加が待たれる。
予防としては、自らの稟性を矯正することが考えられる。
これ以降は前回の記事の補足なので没却可能。
補足或いは、蛇足
鬱屈
通常の日常で加わる鬱屈とした心の傷は、ほかのことに没頭することによって忘れる。
この日々受ける鬱屈とは、人間との係属によって生まれるので、不可避的なものである。人類が普遍的に受け取るものである。
考え
吐き出したい考えとしては、生活に影響が発生しない無益無用なことについて書いていきたい。
正論
「また、目標としては読んでいる対象に正の感情を与えることがあげられる。
これは決して所謂スカっと系のようなもので達成されてはならない。往々にして自身の現実の問題に目を背けて無関係な攻撃対象を用いてストレスを発散する試みは自身の愚陋さを明らかにするだけだからだ。」
この部分についても説明不足感を感じてしまったのである程度敷衍させてもらう。
これは例えば、「『多様性を排除するのを認める多様性』ってオカシイだろ笑。自由を許さない自由ってのがあり得ないのと同じで……」とか、「『こんな事件で懲役○年は軽すぎる!こんなやつを死刑にしない裁判官は再犯の責任をとれるのか!』なんてコメントするやつは、『裁判官は法律に則って判断をしているので罰則に対する批判は立法府に対する批判であるべき』なことを理解しているのか……」とか、果ては「な◯う小説でキャラクターにやらせたいことが先行して(或いは筆者の描写力不足によって)キャラクターが人格破綻者になっていて読めたものではない……」など(一面からみた)正論により意見や存在する事実を批判することによって読者のイラつきを取り除く(相対的に楽しくさせる)ことをしたくないということだ。
理由としては、もちろんオリジナリティがない(論破を見たければひ◯ゆきとか……)ということもあるが、正論はつまりは一面であり視点の狭量さを語ってるに過ぎないということである。「正しさなど人の数だけある。」この考え方は必然論的であるが、理由がなく起こることが少ないことを考慮するとある程度の正当性があると思える。YouTubeのおすすめで「〇〇を完全論破!」を見ていると個人的な感想ではあるが、基本的にはその発言に至る発言者の人生に何があったがなどを軽視することが多くそこが気になって消化不良を起こすので私は観ていない。そういうものは嫌いだ。
セミコロンを日本語文中に使う挑戦。