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感情のその先、自分のためになってる?
何か新しいことを始めたいなーって思うと「躁に行ってるんじゃないの?」と言われます。もう1人の自分に。
「ちげーわ!いちいちうるせぇなぁ」って口ごたえ(対自分なのでとても口が悪い)するのですが、このやり取りいつまで続くのよ一体。終わる気配もなさそうで嫌になっちゃうよねホント。
たまにここに登場する知人は、わたしの事情を知っているのですが、わたしが気弱な時にいつも知人にしてしまう質問。
「躁だと思う?」
この確認も何度繰り返していることか。自分のことを他人に聞くってどういうこと?
そのうち、
「そうだねー」「そうじゃないよー」
というただの世間話が、
「躁だねー」「躁じゃないよー」
って『そう違い』を起こすんじゃなかろうか。
それはそれで話が盛り上がる・・・わけがない。
楽しい、面白い、始めたい、見つけたい、続けたい。
これ全部、一度立ち止まらなくてはいけなくて、みんなが横を全速力で駆け抜けていく中、わたしは競歩。走るのを我慢。
競歩というスポーツをナメているわけではもちろんありません。
あのスポーツはめちゃめちゃ過酷だと思います。走れば1位になれるのに、どちらかの足が必ず地面についていなくてはいけないというルール。テレビなどで見る度に、過酷すぎると思ってちょっと胸がズキズキするのです。
だけど。
競歩というスポーツを選んだ方たちは、とても楽しいのかもしれない。選んだということは多少なりとも好きという気持ちがそこにあるわけで、競歩を一度もしたことがないわたしが、勝手に過酷だと思って勝手にズキズキするのは、選手の方たちにとても失礼ですよね。
そこで出てくる先ほどの話です。
楽しい、面白い、始めたい、見つけたい、続けたい。
そう思った時に、選択肢そのものを今までと違う道にすればいいのかなってことです。
仕事してると楽しい。ズッキュン!
あれもこれも欲しい、買い物最高。バッキュン!
なんでイライラさせることしかないの、怒った。ガチコン!
人のためにわたしは頑張る。胸キュン!
そういったズッキュンとバッキュンとガチコンと胸キュンの、一歩先を考えてみるってことです。
その一歩先が、最終的に自分のためになるのかどうか。そこに焦点を当ててみる。
すると、みんなが全速力で走っている中、わたしは競歩でも別に関係ないと思うようになるはずなのです。たとえ歩いていたとしても。
そしたら自分と他人を比較することも、自分を蔑むことも無くなるんじゃないかなぁ。根底に自分のためという揺るがない理由があるから。
そしてわたしが1番怖いとビビっている「衝動的な怒り」も抑えられるのではないかい?
ただ1番の問題は、自分のためと思うのが難しいということなんですよね。
「あゆみってあんまり好きじゃないんだよねー。だってあの人、めんどくさくない?」
そう言ってくる3人目の自分登場。
「満をじしての登場です!観客から大きな声援が届いてますねー」
「そうですね、この場面での選手交代というタイミングは、監督の素晴らしい判断だと思いますよ。ただイエローカードをよく出してしまうのが難点ですね」
もうね、実況アナウンサーと解説者も出てきたよ。ついでに観客と選手と監督も。
どれだけの人数が頭の中にいるのよ。
で、どっちが勝つわけ?
自ずと答えは出るはずです。ドッキュン!
そしてこの時間にnoteを書いているということは、今日のお昼につぶやいた夜の時間割がさっそく達成できていないということです。ギャフン!