2022荒ぶる芸術愛4大トピック
①トーハクが好き〜守りたい国の宝〜
日本の至宝のことなんて一切興味のなかった数年前のことを思うと、私は今、日本文化を愛しすぎてやばいやつになっている。屏風絵や仏画仏像、日本画浮世絵はもちろん、茶碗、刀、蒔絵に今年はついに手を出してしまった。(書と陶器はまだ良さがわからない。)
そんなわけで日本の四季を芸術と共に愛でるという乙な活動を始めてから(例:お正月には「松林図屏風」見るとか)、トーハク(東京国立博物館)には季節ごとに通い、四季折々にまつわる品をニヤニヤと愛でる程度だったのですが、今年はなんといっても創立150周年。意味不明なぐらい年がら年中すごい品が展示されてるイヤーだったので、なんかめちゃくちゃ興奮してしまって7回も行った。国宝展にも3回行ってしまいトーハク所蔵の国宝89件を見事コンプリートして「あなたは東博国宝博士です」なんていう笑える紙ももらってしまった。
一体トーハクに展示されてる日本美術や国宝の何が好きなのかと問われて、もちろん1作品1作品が信じられない技巧をこらして作られていて凄まじい美と力を放ってるところに魅力を感じてるのはもちろんなんだけど、私は今回「後世のために作品を守る」という美術館博物館の意義とそのためにとてつもない努力が背景にあるのだというところに改めて気づかされてクソでか感情でいっぱいになった。日々素晴らしい作品に出逢わせてもらえてその作品から多くのことを与えてもらえることのありがたさよ。入場料が高くても推しを守るためなら払っていきたいこれからも。美術館博物館に携わるみなさんの活動に感謝しかない。
ちなみに国宝展では初めて拝見した雪舟の「秋冬山水図」と平安時代の「孔雀明王像」と岸田劉生の「麗子微笑」の3作品が忘れられない。どの作品もその場から動けなくなった。完璧に削ぎ落とされた水墨画と華美に技巧を凝らされた仏画、そして美と凶暴さが表裏一体になっている洋画。タイプは違えどどれも私の心を見透かしてくるので唸ってしまった。美を崇拝しているし、美に翻弄されてもいる。
2023年も足繁く通いたいトーハク。
②俺の白拍子花子〜清方先生と勘九郎〜
また日本文化の話になるが、今年は古典芸能にもガンガンに手を出した(言い方)。去年から浮世絵(役者絵、芝居絵)をもっと理解したくて歌舞伎を見始めたけど、今年はそれに加えて人形浄瑠璃、狂言、能にときめきまくった。最っ高だった。
私は「ドヤ研究家」なので(は?)、歌舞伎は当たり前に好きなのですが「間(あわい)研究家」でもあるので(ん?)屏風とか簾とかしめ縄とかアンニュイな仕切りによって生まれる空間がたまらなく好きなのです。宇宙とか神秘とかなんか壮大なものを感じて目が爛々としてくる(危ない)。能はまさに橋掛りを境にあの世とこの世の空間によって成り立っていて、今年特に出会ってよかったと思っている代物だ。
そんな能の演目で「道成寺」がある。私はその元になっている安珍清姫伝説がものすごぉぉぉおぉぉおぉおぉぉぉおぉぉおぉおぉく好きで、去年「あやしい絵展」で橘小夢たちがこれを題材に描いてた絵にやられてからというもの、「道成寺」演目にゆかりのあるもの全てにノックアウトされている。
そんなわけで、今年は鏑木清方先生がお描きになられた歌舞伎の「娘道成寺」に出てくる「白拍子花子」を描いた屏風絵がダントツの遠藤1位作品だ。この作品が好きで好きで好きで好きでたまらなくて今年は「鏑木清方展」に3回(東京2回、京都1回)行けた。
あの粘着質な目と反り、裾の広がり方はもはや蛇。これはもうとびっきりの地獄一のお耽美作品だ。
ほんまにこんなに背中反るんかよという疑問があったので(失礼)、必ず近々能と歌舞伎それぞれで「道成寺」を見なければと思っていた矢先に、12月ついに團十郎襲名公演で念願の勘九郎と菊之助さんの歌舞伎「京鹿子娘二人道成寺」を観ることができた。花道に七三という妖怪や幽霊しか出てこれないセリがあるのだが、しょっぱなそこから菊之助さんが出てきた瞬間に感極まりすぎて号泣した(そこ?)。
そして何より清方先生の描いた白拍子花子が勘九郎とリンクするするするする。あたしゃもう感動の限界だったよ。今年一番のご褒美だった。男が女をファム・ファタルとして描くということに少なからず抵抗がありながらもラファエル前派や世紀末芸術がたまらん好きという矛盾を抱えてる遠藤ですが、清方先生と勘九郎の白拍子花子は「芸を極めた者が表現する鬼女」であって、女ではないこの世ならざる者だということに改めてハッとさせられた。
芸を極めるということは無限の色彩を操れるということなんだろう。
煩悩を捨て去ることが何かの解決になるとて、人間の尽きない欲望にもまた心が惹かれてしまうよ。
③リヒターは必修科目
今年一番脳みそをやられたのがリヒター。今まで私が見てきたものはなんだったのかを全て問われるようなそんな凄まじい体験をし、しばらく「真実、現実ってなんや?」「私の目、めちゃくちゃ適当なんかもしれへん。見たいものしか見てへんということか?は?」とよくわからなくなってしまった。
そのあと訪れたいくつかの展示もリヒターを引きずってしまい、「見たものしか描かない」と言ったクールベを根本的に疑いにかかるということまでし始めてしまった。
リヒターがやってきたことは今までの美術の歴史の表現を見直すことであり、頭ではそれをやろうとした人は今までもいたと思うのだが、リヒターはそれを圧倒的な完成度で形にしているというところにマジで驚いた。フォトペインティングに始まり、いろんな表現があるけれど、全部やばい(語彙力)。ちょっとすごすぎる上質な表現に大興奮してしまい、情緒が乱れパニックになりながらも今自分に必要な問いを考えさせられる濃厚な時間になった。
あまりにも良すぎたので東京近代美術館と愛知の豊田市美術館の両方観にいったのだが、両方行ってマジで良かった。至極の体験になった。
東京の方は入ったらすぐ空間が開けててどの作品からでも自由に見れる感じなのだけど、豊田市の方は入って速攻で鏡作品があって、いきなり「見る私」という現実を突きつけられるところから始まって唸った。そのほかにもキュレーションが違うだけでこれだけ感じ方や問いが変わってくるのかという驚きがすごく、改めて複合的な視点を持ちうる作品の強度に気づき、みる時間がもっと必要だと思った。
特に「ビルケナウ」、とてもじゃないけどあれは短時間でみきれるものでもないし、ましてや1人でみれるものではない。東京は人が多かったのでどこかまだ安心感があったのに対して(赤ちゃんの泣き声がどこかから聞こえてきて生命のサイクルは途絶えていないことに胸が張り裂けそうになったのだけど)(ほんとは1つの部屋に閉じ込められてるのに集団心理で安心感抱かされるってのも逆に怖い)、豊田市では広い空間に私たった1人で、流石に受け止めきれない。1人で反抗も何もできない。立ってるだけ。見てるだけだなって絶望的な気持ちになってしまった。
でも今日も戦争に対峙してる人が世界にはいる。
絵画を写真や鏡に写すことでインスタントに反復されてるの、タモリさんの言葉借りるなら新しい戦前ってことなんだろうけど、リヒターは現実は突きつけながらも十字を切ることでそこに祈りも込めてる気もして、めちゃくちゃ考えさせられた。
リヒター展観てから、もっと何があったか事実を知らないといけないと思って今年の終戦記念日前後に放送されてたドキュメンタリー番組を手当たり次第全部録画して観て、ゾンダーコマンドについてや、強制収容所の内情を探るために潜入していたピレツキのこと、戦後の西と東の文化的背景など知らなかったことをたくさん知った。やっぱりアートを通して世界を知ることを続けていかなければと思った。
④過去から学び未来につなげていく
2022年ぶっちぎりで面白かったキュレーション\2大チャレンジ展示/といえば松濤美術館の『装いの力 異性装の日本史』と練馬区立美術館の『日本の中のマネー出会い、120年のイメージ』展だ。
「綺麗な作品でしょ〜頭使わなくても大丈夫、ゆっくりしてってね〜」という思考停止展示も往々にしてある中で、遠藤はゴリゴリに「ねぇ!!!一緒に考えよ!!!!!」と訴えかけてくる展示が大好きだ。仕事などで疲れ果てている時にはさすがに癒しを求めに美術館に行くこともあるし、そういう展示も絶対に必要なのだけど、この一緒に考えよう展示の何がいいかって、作品(文化財)が持ちうる潜在的な力をより実感できる。つまり作品単体が持ちうる力には限界があるのだけど、複数の作品を組み合わせることで新たな観点で作品の力が浮き上がってくるということ。
自分にはなかった視点で作品を見ることができる。これこそ美術館に行く醍醐味だと思っている。
「装いの力」展はその名の通り異性装がどれだけ日本では古来から馴染みのあるものだったかという歴史を古事記からダムタイプまで辿っていく展示内容だ。
実は私、この展示の感想を書いたのだがUPできていない。異性装をしたことがないシスジェンダーでヘテロセクシュアルの私が異性装についての展示を見たからといってわかった気になってしまってないか?と思えるような内容だったからだ。「アート」という言葉がいろんな意味をはらんでいるのと同じで、「性」もまたいろんな文脈がある。一言でまとめられるわけがない。そんなわけで異性装を語る前の時点でつまづいてしまったりもしたのだが、こういう気づきも含めてとても貴重な展示だったと思う。
そしてただ歴史を辿って行くということではなく、「この時代こんな背景や文化があった中でこの人たちはどういうセクシャリティでどういう思いでどういう目的で異性装を試みたのか、またはせざるを得なかったのか」「男らしさとは?女らしさとは?性とは?私とは?」という問いを常に投げかけてくれる熱のある展示だった。
私はこの展示を見るまで、安易に「男性が女装する」「女性が男装する」の2種をイメージしてしまったが【私という人間が女装する・男装する】ということなのだということをこの展示を見て気づくことができた。性自認は女と男の2つではなく、もちろん女でも男でもない人もいる。また女装する人はみんながみんな女性になりたいのかというとそういうことでもないし、性的指向が女性に向いてるから男装するわけでもない。すなわち「《異性》装」という言葉自体に偏りがあるのでは?ということも明示された上での展示になっていたことによって、多様な視点で作品を見ることができた。
賛否両論あったが企画された方々にまじで感謝したい。
さて、「日本の中のマネ展」の方も絶賛語りたい。2022年ダントツでおもしろかった展示は間違いなくこれ。「マネって日本じゃそんな有名じゃないんだよな」っていう事実に目をつけたキュレーターの方、最高すぎる。しかもそこに遠藤が大大大大尊敬してる東大の三浦篤先生を監修に持ってくるという人選も天才すぎる。手加減なしの濃厚案件。わかりやすいとかそんなことは二の次でとにかく熱い。キャプションとか長すぎて読んでる間に日が暮れそうだったwこういう挑戦状叩きつける系の煽り展示、オタクたちは震えるぐらい好きなのわかってんだろうなw
会場の3分の2を使って日本にある貴重なマネ作品を始め、日本人がマネに感化されて作った作品やマニアックな資料などをもとに、いかにマネが美術界に革命をもたらしたかということが熱く熱く語られるのをヘトヘトになりながら見終わったら、最後3分の1の空間を使って\どーん!/\ばーん!/って森村泰昌さんと福田美蘭さんの作品がお出迎えしてくれるという、まじで懐石のフルコース。面白すぎて死ぬかと思った。麻薬構成だ(言い方)。
そんなわけでマネが試みたことの伏線回収現代バージョンをお二人が、特に福田美蘭さんは新作も携えて(凄すぎ)全部やってくれるという豪華展示により、いかにマネが問題提起も含めて革新的なことをしてきたかということが手に取るように理解できたのだが、マネの1番面白いところはそれだけ革新的なことをしながらも「由緒正しいサロンで評価される」ことを望み続けたという矛盾する点で、なんとそこを福田美蘭さんが現代のサロンである「日展」に展示期間中にマネをオマージュして製作した自作を審査してもらうというリアルタイムで事が進行するという、もう何重にも面白い展開になっていて、展示を見終わったあともその動向が気になり続けるという興奮が冷めやらない余韻のある熱い熱い展示だった。
私は現代アートは古典の上に成り立っていると思っているので、この古典→近代→現代の時の流れに激しく萌えるのだが、意外とこの流れを丁寧に掬ってくれる展示って滅多に無いので、そういう意味でも本展は時代を経ても尽きることのない「表現したい」という力強くて美しい普遍的な欲求、人間が持っている原始的な熱や衝動をも感じさせてくれるものになっていて、壮大なロマンを感じる展示、未来にも繋がる素晴らしい展示だった。
【2022年行った展示】
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