ウィーン・プラハ旅行【レオポルド美術館】鑑賞レポ③
次はレオポルド美術館!
ここの美術館はやばい。興奮しすぎて鼻血出そうになりましたし、間違いなく貧血は起こしました(鉄分とれ)。案の定足腰はいてまいましたが気づけば朝10時から閉館18時までぶっ通しで見ていたぐらい本当に見ごたえのある美術館でした。展示の仕方も洗練されてて風通しがよくてすごくいい。
4階と3階にはウィーンの19世紀~世紀末を彩った綺羅星たちの悶絶級名作が勢ぞろいしているので、夏のエロスとタナトス祭りに放り込まれる感じです。
「生きるってなんや死ぬってなんや」と音頭取りながら神輿を担ぎ過ぎてハイになったのか全部見終わる頃にはなんか清々しい気分になりました。
みんな過去とか未来とかより、「今」どう生きるか、わかることもわからないことも見たいものも見たくないものも全部抱えて今を生きていることが伝わる作品が多くて、すごく自分に刺さりました。
1階には20世紀に活躍したオーストリアのアーティストを中心とした作品が展示されてるのですが、ベルヴェデーレでも虜になってたルドルフ・ヴァッカーの別の作品もここにあり、会えてうれしかったです。
ハンス・マカルト「Modern Cupids(1868)」
さて、気に入った作品をいくつかご紹介していこうと思うのですが、まず4階に上がったら、遠藤がどうしても見たかったハンス・マカルトの「Modern Cupids(1868)」がお出迎えしてくれました。
はぁ。うっとり。手を取り合い逃げる女の子たち、燃える花、キスをする2人の花嫁、何も知らなさそうな小動物たち、まばゆい黄金の空。
享楽的で幻想的だし、なによりゴージャス。いちいち手の表情がいい。肌の色もいろいろあるのもいい。
秩序がありそうな気もするけど掴もうとすると手からするりと逃げてしまいそうな実体のない感じがたまらん好きな絵でした。
グスタフ・クリムト「死と生 (1915)」
そしてクリムトの「死と生 (1915)」。今回事前に【遠藤鑑賞】という地味にひとりでむちゃくちゃ時間かけて作品鑑賞をする企画でこの作品を研究していたのですが、実物を目の前にして「わ~♡」って舞い上がっちゃって、なんも頭回んくなったので、ほんまに事前にちゃんと見て考えておいてよかったなって思いました。
なんやろ、クリムトの作品って色がほんまにうそみたいに綺麗なんです。これ、作品目の前にしたら魔法にかかってしまうなって。
夢の中にいるのか快楽に溺れているのか、1つの塊に溶け合うようにまどろんでる女の子たちからは現実の見えて無さみたいなのが感じられるんですけど、今まさにこの絵に対峙してる自分の状況と重なったことで、なるほど死と生に対して美が圧勝してる。生きてるようでほぼ死んでるような複雑な人生の中でも(言い方)美が一縷の望み、救いみたいな役割を担ってるんや。美の力ってこういうことかと気づくことができました。いつも美さんにはお世話になってます。ありがとうございます(急)。
やっぱ事前鑑賞をしてから実物を鑑賞するという流れ、間違いなくいいですね。対話型鑑賞もしてから行ければもっと多様な見方を基に鑑賞できたやろうなぁ。
リヒャルト・ゲルストル
ほんでここでも目が離せへんのがリヒャルト・ゲルストルです。彼の作品ほぼ燃えてるから残ってないので、この美術館にある作品群はまじで貴重です。
その中でも注目したいのが男性ヌード自画像という未開拓ジャンル作品。
今年の春に東京都美術館にも白い腰布を巻いてイエス(救世主)に自分をなぞらえたかのような曇りなき眼の半裸作品が来ていましたが(写真右下)、今回カンヴァスを前に全裸でポーズを取っている作品を目の当たりにして、うわ。。。ってなりました。これはしんどい。
なにが一番驚くかってその描き方なんですが、殴り書きとか衝動的なタッチではなく、凄く丁寧に形を捉えようとしているけれども形も実態もないんです。こんな強烈なタッチはゴッホでもムンクでもなく、ゲルストルでしか見たことがないです。
で目がキラキラじゃなくて今度はギラギラしている。すべてを受け入れますみたいな悟ったかのような感じから、怒りとか苛立ちみたいな感情を隠しきれていない神経質な感じ。
この作品制作後の数週間後に彼は死を選んだそうですが、この作品を描くこと=自分と対峙するための手段だったことを思うと、うちらが時代を超えて今この作品を覗き見させてもらってることの意味を考えさせられました。
絵画を通して永遠の命は得たゲルストル、こうやって彼のことを今も考えてる人がいるということで無事に孤独から解放されたり満たされてたらいいな。
エゴン・シーレ
そしてそしてここからが本題です!(長過ぎ)レオポルド美術館と言えば、シーレ作品です!!!!
彼、28歳で亡くなってるからそこまで作品数多くないのですが、ここにほとんどの作品があります!!!大興奮やでこれしかし!!!!
これ見てもらったらわかると思うのですが、うちはもうこの手が本当に好きでさ…♡(狂)皮と骨なんです。血も通ってない。でも美しい。なんでやねんどないやねん。ほんで大抵の手は親指を隠して人差し指と中指の間に絶妙な開きがあって、これはシーレの推しポーズやなと見てるんやけど、厨二っぽい感じがめっちゃいいですよね。
私も今後記念写真撮るときに積極的にこのポーズを取っていきたいと思ってます(やめろ)。
そんなわけでシーレの作品ありすぎて情報過多、好きの気持ちが溢れて情緒が爆発していましたが、今回様々な作品をじっくり見比べることができたおかげでシーレの建物の作品群と人物画(「死と乙女」や「transfiguration」など)の背景に描かれる岩のパッチワークみたいなものって繋がってるのではということに初めて気づけました。
荒涼とした風景でありながら、人の営みがそこにはある=渇きの中にある熱の比喩なんじゃないかと。そう思うとシーレの絵って一貫して全部同じことを描いてると思います。
この前東京都美術館にレオポルド美術館からシーレの「吹き荒れる風の中の秋の木(冬の木)(1912)」が来ていましたが、それも今にも折れそうな枝に反してそれでもかなぐり生きようとしている姿がシーレそのものやなぁと思いました。(「遠藤鑑賞」をご参照ください)
彼が描く対象すべてが結果シーレ自身を擬人化しているように思えるんですよね。どんだけ自己開示してくれるねん。ありがとうな(誰)
ゲルストルのように自己との対峙を目的に描いた自画像もありますが、シーレのはもううちらに見せつけたくてしょうがない感じがします。オーディエンスの歓声に酔いしれたい、それが誹謗であろうと憐みであろうと彼はすべてを養分にしていけるような強さがあるように思います。生粋のスターやね。
うちは目がいってる物事を極めし匠が好きなんですが(言い方)、シーレの目もやばいんです。
美しいものだけを見て現実を見ないという選択もできる中で、彼は物事を嘘偽りなく正面から捉える気概がある。悲しみや喜びなどいろんな感情が“同時に存在する”ということをとても良く理解している目だと思う。(ちなみにペア作品のウォーリーを描いた絵、口角よく見ると鉛筆でもっと笑ってるような線が残ってて胸が張り裂けそうになった。)
結論、今にも崩れてしまいそうで火傷しそうなヒリヒリした感じを醸し出しながらも、一方でシーレの作品を見れば見るほど生命力を感じずにはいられなくて、それがあまりにも美しくて、うちはファンになりました。
細すぎてマッチョにすぐにぼこぼこにされそうな感じはあるけど、芯に美を携えた人は強い。
お気に入り作品
最後はお気に入り作品。
まさかアルマ・マーラ人形のレプリカあると思ってなかったので、遠藤大歓喜!!!!!ココシュカがアルマのこと忘れられなくて作った人形なんですが、なんかもうその熱意強烈やけど欲望って底が知れへんなぁって、こういう自分の常識を超えた事例を知ると人間のこともっと好きになる。思ったよりぶりぶりした量感だったのでえぇやんって思いました。
それからエミーリエ・フレーゲコーナーが胸熱過ぎた。ドレスの写真を載せてますが、なんて美しくて開放的なフォルム。生き方から考え方からつくったものまで全部好き。推し。
あとベルヴェデーレ宮殿の時も絵画作品の中にロダンの彫刻がいい感じに共存してる展示手法がとられてて、ここでもシーレの絵と呼応するように置かれてたんやけど、やっぱロダンしか勝たん。人間性とかは一旦置いといて、つくるもんえぐい。この彫刻も伸びと反りとひねりがたまらんでした。
というわけで地下1階と2階は企画展が開催されていたので、そっちのレポは次にUPします!(どんだけ広いねん)
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