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国際芸術祭あいち2022

国際芸術祭あいち2022
愛知芸術文化センター、一宮、常滑、有松

夏の終わりに【国際芸術祭あいち2022】に、アトリエ遠藤メンバーで行ってきました!

快く一緒に行ってくれたみんなありがとう(涙)芸術祭は、旅の中で体験を誰かと共有し、思いや考えを話しながら、時には迷いながら観て周ることも楽しみの1つにしているので、今回それが叶ってとっても嬉しかったです!



さて、あいち2022は森美術館館長の片岡真実さんキュレーションということで、もしや鑑賞に頭と心めちゃくちゃ使うのでは…!と身構えていたのですが、案の定「生きる意味とは?困難な現実を生き抜くためには?still aliveとは?さぁ考えてみて!」と壮大な問いを、膨大な作品数と国境や性別を越えた多様な視点から問い続けられるという圧巻の内容でした。

私たちは1作品ごとにじっくり向き合いながら対話しながら鑑賞していたこともあり、愛知芸術文化センターの展示に関しては最初の4~5作品で1時間使ってしまい、残り40作品以上あったのですがもちろん全く時間が足りなくて全部しっかり見れず、横目で作品を名残惜しそうに見つめながら駆け足で館内を移動するという苦行を強いられました(笑)

そんなこともあり、4箇所巡りきった2日目が終わる頃には\もう限界です!/ってぐらい脳みそが沸騰しきってしまい、身体もへっとへとのくったくたになったのと、様々な作品から感じられた「生き抜く」という強いメッセージの力があまりにも強く、消化不良も相まってしばらく頭も心も整理がつかず、なかなか感想が書けるところまでいけませんでした。

以前行ったことのある『大地の芸術祭』や『越後妻有トリエンナーレ』では自然の壮大な力と共に作品を鑑賞することで、五感が潤い、心が解き放たれるようなおおらかな感覚で鑑賞ができ、なんだったらセラピーレベルで元気になったのですが、それらとはもう全く正反対で、こんなに心も体も擦り減るようなストイックな芸術祭もあるのだなと(笑)

でもそのおかげでたくさんの問いが見つかり、わからないことが増え(笑)、意識の変革も少し起こすことができたように思います。



今回、「名古屋」の愛知芸術文化センター以外に、織物が栄えていた「一宮」、焼き物が盛んな「常滑」、有松・鳴海絞が有名な「有松」の計4箇所が会場になっています。

『場所』×『作品』が呼応し響き合って生まれた作品はどれもとても見応えがあり、芸術祭ならではの”場所の魅力”というものを知ることができたのはもちろん、知らない場所を自分の足で歩いてみるという経験こそが、アートをそして他者を理解するために一歩踏み込んではたらきかけることと同じ意味を持つんやなぁと改めて実感させられました。



さて、ここからは印象に残った作品の感想。


まず、「一宮」では最初に奈良美智さんの「Fountain of Life」を見ました。小さな覗き窓から見た時は作品のほんの一部しか見れないので全貌が分かりかねるのですが、子供たちの目から涙がとめどなく流れているのが見えた瞬間、どうしたらいいのかわからなくなりました。切り取られた画面に映る映画のようにその様子を傍観しているだけで私は何も手出しできない。その非情さよ。

ぐるっと裏に周ると空間が開け、作品の全体像が見れるのですが、天からの希望の光にすがるようにどの子供も顔が上向きになっていて、3人の子供は半分顔が水に浸かってて溺れそうなのですが、それでも懸命に上を向いて涙を流してて、一緒に泣いてくれてるんだな…と祈りの力を感じました。

みんなと「なぜティーカップなのか?」という問いに対して「手のひらサイズで起こっている小さな世界のことがこれだけ大きなスケールに拡大されてるということは私たちが想像もできないほどの規模感で救いが必要なことを可視化しているのではないか」という話をしたり、「涙がティーカップから溢れないことからどういうことが言えるのか」かなどお話ししたりしました。

奈良さんの作品は馴染み深さという点で子供から大人、そして人種を越えていろんな人にメッセージを伝えられる強度があって改めて素晴らしいなと思いました。




そして愛知県美術館で一番最初に展示されてたのがマルセル・ブロータースの「政治的ユートピアの地図と小さな絵画1または0」という作品です。これ、普通にその辺で売ってそうな世界地図に書かれてる「MONDE(世界)」って字に線が引かれてて、その上に「UTOPIA(ユートピア)」って書き直されてるだけの作品。最初、これはなんや?と思ったのですが、違うお客さんが「デュシャンと同じやつだね」と話されてるのを横で聞いて、なるほど、レディメイドかと理解できたのですが、その気づきと共に、一瞬で見方が180度変わるってまじでやばいなと思いました。
私たちのいる地球を「ユートピア」という視点で見た時に、本当にそうなのだろうか?という疑問が出てきてしまったので、解決しなければいけない問題が世界には山積みあるなということを意識させられたとても強い作品でした。

世界平和とはなんなのか。誰のための平和なのか。




次に、冒頭にも書きましたが、愛知県美術館では時間が足りなくて横目で見送った作品がたくさんあるのですが、その中でもっともっとじっくり見て考えたかったのが百瀬文さんの映像作品「Jokanaan」です。

オペラの「サロメ」を元にしているとのことだったので旧約聖書ではなくオスカー・ワイルドの方のあらすじに沿ってるんだと思います。振り向いてくれないヨカナーン(ヨハネ)を手に入れたいサロメは欲望を満たすためにヘロデ王にヨカナーンの生首を所望し、銀のお皿に乗ったその生首に「お前にくちづけしたよ、ヨカナーン」という名セリフと共に口づけをするというストーリー。

左のスクリーンには男性、右のスクリーンにはCGで作られた陶器みたいな女性がオペラ「サロメ」の「私を見て」というくだりのシーンの歌を歌っていて、ヨカナーンとサロメかな、クライマックスのシーンかなと思って見ていたのですが、オペラの歌の持つ力により心を激しく揺さぶってくるし、CGの女性の表情も悲喜こもごもで非常にドラマチックなのですが、よく見ていると歌と口が合ってないし、動きもなんかすごいちぐはぐしててなんじゃこりゃと思ってたら、実は右のCGの女性は左の男性の動きをモーションキャプチャーでデータ化して映されているものだと知って、ということはヨカナーンだと思って見てた男性の身振り手振りの感情表現の動きはヨカナーンではなくサロメだったのか…という衝撃。

私の脳みそは勝手に「男女」という位置付けにより、それが登場人物2人を表していると思い込んでしまい、しかも2人の間に世紀末芸術特有の退廃的な官能美みたいなものまで感じてしまっていたけれども、どっちもサロメじゃん、しかもこの音源はこの映像には映っていない全然別の女性のオペラ歌手だし。と、もうなんかこんがらがってしまいました。

というわけで複雑な要素が絡み合っているこの作品から考えられるテーマ、かなりたくさんあると思うのですが、そのうちの1つとしてフェミニズムの視点からハッとした気づきがありました。

19世紀末、女性の社会進出が進んでいく中で、女性には従順ではない一面があるということに気づいた男性たちが「サロメ」という題材に理想とするファム・ファタル像を見出したと思うのですが、この題材を「男性が主体となってサロメの感情を演じる」というのはものすごく的を得ているのでは。だってサロメは男性の理想でしかないから。はぁ。こんな形で視覚化されたのすごいなぁ。
百瀬さんの作品、他にももっと見てみたいです。



もうひとつ同館で猛烈に気になったのがパブロ・タヴィラさんの作品です。

こここそ滞在時間30秒レベルでなんも味わえなかったのですが(涙)、空間に入った瞬間に心奪われてしまいました。弦楽器と女性の歌声による音楽が空間中に美しく響きわたっているのですが、エンドレスに同じところだけが繰り返し繰り返し流れていて、なんだかとても心地よい。後からこれが一呼吸の2秒程度が繰り返されているということを知って、呼吸のリズムが心地よく感じるなんて生命の神秘だなぁって思いました。

そして巨大なスクリーン。細かいグレーや白や黒の細かい粒がザザザザと映し出されているので、遠くから見てるとテレビの砂嵐なのかなと。砂嵐って無音で見てると心落ち着くなぁと感じるのですが、近くで見るとその粒は実は膨大な量の数値らしい(近くで見なかった悔やまれる)。宮島達男さんのデジタルカウンターも一生見てられるけど、この映像(アーティストはこれを「映画」だと言っている)も忙しなく小さな数値が切り替わっていくだけなのだけど、その刹那の様をずっと見ていたい気がしました。ただの数字から時間と命を感じるなんて不思議だなと思うけど、コロナを経て「時間」に対して思うことはすごくあって、また機会があればあの1室で時間について1日中考えてみたいです。




さて、まだまだ続きます。「常滑」ではグレンダ・レオンさんの音にまつわる作品がとても好きでした。

星座瞬く青い壁は実は星同士がギターの弦で繋がれてて、それを弾くと音が奏でられるんです。隣の壁には月の満ち欠けが。でもこの月、実は太鼓になってて、ぽんぽこ鳴らせます。その隣には雨の軌跡と波紋がピアノ線で形作られていて、それも弾くと結構渋い音が鳴る。

自然を模した形から音がそして音楽が奏でられるなんて、自然と対話することができるような気がしてなんて素敵なんだろうと思いました。

星の音、月の音というのは普段私たちには聞こえないものですが、音があることでとても身近に感じるのだなと発見がありました。音というか声なのかもしれません。月も星も目には見えてるけど、どことなく親近感が無いように思います。でも音、または声があるとしたら、どんなことが対話できるだろうか。とても想像力を掻き立てられる作品。人間や動物には「声」があるし、人間は話をすることもできる。そんな当たり前のことにも気づかされました。コロナでオフラインで話す機会が減ったり対話自体が減った気もするけれども、せっかく声があるのだから対話したいと思いました。そして大事なのが自然は話せないので、私たちは自然からのSOSに気づくのがとても遅いということ。音を可視化させられたことで、耳を澄ませなきゃいけないなとそんなことも考えさせられました。



あと、常滑では昼ごはんを座って食べる時間の余裕がなく、我々は常滑特有の急勾配な坂を歩きながらパンを食べるというストイック過ぎる選択をしたのですが、それも忘れられない思い出です(笑)



そして「有松」では大好きなAKI INOMATAさんの新作が素晴らしかったです。ミノガの翅の模様を有松絞りで表現し、その生地を用いて団扇として仕上げられた作品なのですが、絞りの滲みのまぁ美しいこと。そして扇ぐと大きな羽が羽ばたいてるように見える団扇の形も、色も何もかもが尊い。

この星が創りし生き物のデザインや営みって本当に美しいなと、INOMATAさんの作品を見てるといつも感じます。人間の目からすれば無駄にしか見えないようなことが生き物や自然にはたくさんあるように思いますが、そこをわざわざ合理的な視点で意味を見出していくのではなく、その魅力をそのまま表現しているのがINOMATAさんの作品で、毎度ほんとにハッとさせられます。人間の視点には本当に余計なものがたくさんついてますね。生き物を見習いたい。

有松の良さを十二分に引き出していて素晴らしいコラボレーションだなと思いました。



最後にもう一つ、「有松」ではあちこちにミット・ジャイインが手がけた暖簾がかけられていたのですが、1箇所だけ空に向かって空中に暖簾が舞っている場所があります。青空の中、風にはためくパステルカラーの帯があまりにも夢みたいに綺麗で、旅の最後にこの作品が見れて、2日間の旅が走馬灯のように頭を駆け巡って(死ぬんか)、無事みんなと暑い中4箇所巡りきれたことが嬉しくてぱ〜〜〜ってなりました。(言語化を放棄)



というわけで、気になった作品をいくつか選んで感想を書いてみましたが、ここに書いてない作品はよくなかったとかそういうことではなく、もっといろんな経験をしたり、その国に赴いたり、歴史を知ったり、熟考しなければ言葉にすることが難しい、要は現時点では「わからない」ままにしておきたい作品がとても多かった印象です。文化や宗教、社会を知っていくきっかけになった作品も多かったし、人それぞれの生と死とか体や心についてどう考えているかもアーティストの数だけ違うのかと当たり前のことを再確認できました。表現方法自体も目にしたことのないもの想像したこともないようなものばかりで、すごく面白かったです。1人だったらもっとわけわからんかったと思うので、みんなとああじゃないかこうじゃないかと対話しながら見れて本当に良かったです。


と、なんかいい感じにフォローしてみましたが、実際はとにかくへとへとになりすぎて、ヘレンケラーの「ウォーター」状態ひっきりなしだったので感情と脳みそ全然追いつかず、なので「知る、考える」より「感じて、想像する」といった五感が喜ぶ作品がシンプルに嬉しくてその印象が強いのかもしれません。感想書いてる作品のほとんどが自分の生活に親しみのある作品だったので、偏りがあるなと自覚しています(笑)

知る、考えるってめちゃくちゃ疲れますね。


そして私の心を穏やかにしてくれた作品の中でも特に気に入ってるのが「LOVE!STRONG!FREE!」とシンプルでありながら力強い言葉を投げ掛け、小粋過ぎる民族音楽、そしてかわいすぎる躍りで、この地で生きることの喜びや、女性同士の友情、無限の愛などを表現し、エンパワーメントしてくれてるケイリーン・ウィスキーの映像作品と絵画で、超ハートフル過ぎて大好きになりました。

それまで他作品から投げ掛けられる深刻な問いにより厚い雲に覆われグレーに染まっていた心が一気にビビッドなピンクで溢れかえり、嬉しくて思わずみんなで畳の上で踊ってしまいました(笑)

旅の道中でも「ずっと心にケイリーン・ウィスキーを♡」って思いながら時々思い出しては小粋に踊りながら見て周ってました(笑)


さっきから疲れた疲れた言ってて申し訳ないのですが(笑)、でも、この「へとへと状態からユーモア作品にだいぶ救われた」「想像することはできた」経験から考えるに、一見解決できなさそうな複雑な問題や人間同士のわかりあえなさによる争いも、ユーモアや想像力が人の心を変化させたり理解しあうことを促せるひとつの大きな契機になり得るということかもしれないですね。(うまくまとめたぜ)


というわけでこの愛知2022で「表現する」ことで開かれる扉がこれだけたくさんあるということに改めて気付かされました。困難な時代を生き抜くためにアートが持つ力をこれからも信じていきたいと強く感じたし、世の中には多様な見方や視点があるということを受け入れ、今わからないこともいつかわかるかもしれないしわかりたいし、向き合うこと、一歩踏み込むこと、ユーモアを持って想像すること、めちゃくちゃ疲れるけど知り、考え続けることをやめないでいたいと思いました。

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