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topics 3 酒とバラの日々

勤めていた精神病院には、アルコール依存症の患者さんも入院していた。自ら病院の門を叩いて来る人は、まずいない。たいがいは家族が困り果てて、病院に連れて来る。そうでなければ、「往診」と称する捕獲劇で連れて来られた人たちだ。いまではとても許されないだろうが、当時はそれもアリだった。病院の名前は、その地域では「オカシクなった人が行くところ」として知られていた。だから「とうとう俺にも、その番が回って来たか」と観念する人もいただろう。

アルコールを飲むと、酔うのはみんなが知っている。「だんだん強くなる」とか「効かなくなる」という耐性も、知られている。でも依存性については、あまり理解されていない。「そんなの知ってる、アル中になるんでしょ」という人もいるだろうけど、飲酒欲求が病的に強くなることは知られていない。目の前に水があったとして、「喉が渇いたから飲もうか」というのと、まる一日水分を取っていない人がコップに手が出るのはレベルが違う。だから彼らの「どうしても飲みたい」は、意思ではコントロールできない。初めは「ちょっとだけ」と飲み始めても、常にへべれけになる。いちど飲酒へのブレーキが壊れてしまうと、二度とブレーキが使えなくなってしまう。

「酒とバラの日々」という映画を、ご存知だろうか。主題歌はヘンリー・マンシーニ作の美しいメロディで、ジャズのスタンダードナンバーにもなっている。アルコール依存症の夫が、隠しておいたウィスキーを探して半狂乱になり、義父のバラ園を滅茶苦茶にする。それが「酒とバラ」なのだ。妻もアルコール依存症になっていたけど、あくまで病気を認めずに夜の街をほっつき歩く。娘が父親に「ママは良くなるの」とたずねて、「ぼくが治っただろ」と答えて映画は終わる。主役はジャック・レモンで、妻役は「オーメン」で有名になったリー・レミックだけど、日本のテレビで放映されることはまずない。放映に向けて吹き替えもされたが、スポンサーがサントリーだったためにお蔵入りになったらしい。

アルコール依存症の恐ろしさは、病気の否認にある。自分でも「アル中になったのでは?」と思いつつ、もう飲めなくなるのが怖いのでどうしても認めない。実はアルコールが入っている状態に脳が適応しているので、切れてくると不快な症状が出てくる。それを治すために、アルコールを入れる。そのくり返しになっているから、どうしたって認めたくないのだ。行きつく先は失職、家庭崩壊、ホームレスで、自殺者も多い。あるいは肝硬変や食道静脈瘤、膵炎、脳炎など、深刻な病気になる人もいる。

そんなアルコール依存症の人が入院してくると、せん妄状態になることがある。だから初めは騒いでも良いように、個室に入ってもらう。「壁にクモがいっぱいはりついているから、取ってくれ」と看護師に泣きついてくる人もいる。小動物幻視といって、なぜか虫だのヘビだのの類がいっぱい見えるらしい。何日かするとせん妄から開放されて、すっかり病気が治ったような気になる。でも本当の闘いは、それからだ。院内の断酒会に参加して、「アルコール依存症とはこういう病気です」という講釈を聞かなくてはいけない。もちろん参加しなくても良いのだけれど、みんな退院したい一心で参加する。

その講釈をするのが、私の役割だった。「あんた、酒は飲むのかい?」と患者さんたちから聞かれると、「飲めないんだよね」と答えていた。これは本当で、アセトアルデヒド脱水素酵素がないらしく、アルコールを飲むとすぐに顔が真っ赤になってしまいには吐いてしまう。「飲まない人に、俺たちの気持ちは分からんだろう」とは、何度となく言われたけど、まったく意に介さなかった。仕事も食事もしないで、ぶっ続けで何日も飲み続ける人の気持ちなど、分かりたくもなかった。

彼らが自己申告する飲酒量は、あてにならない。家人に分からないように外で飲んでから、家で飲む。ビールや日本酒だとお金がかかるから、取っ手のついた徳用のウィスキーや焼酎が彼らの御用達だ。ウィスキーの徳用瓶を、毎日一個ずつ飲んでいたという人もいた。日本酒だと、わざわざワンカップを買う人もいた。最初は「一個だけ」と思って飲む、でももう一個、また一個と歯止めが効かなくて、最終的には一升瓶の方が安上がりだった……という笑い話になっていた。

入院して「俺は病気だったんだ」と悟る人、看護師の目を盗んで何とか飲んでやろうとあがく人、色々だった。退院してから自助グループの「断酒会」につながると、回復する人が多い。回復とは酒を飲まない暮らしで、一杯でも飲んでしまうと元のひどい酒飲みに戻ってしまう。それでも断酒を続けて三年くらいすると、自分がいかにオカシクなっていたのか、それに気づく人もいる。家族や友人よりも仕事や趣味よりも、何を置いても「酔う」ことを目的に生きるのはオカシイ。そういう自分がマトモだと思っていたけど、酒のためにオカシクなっていたんだ、と。ここまでヤラれるのだから、つくづく恐ろしい病気だと思う。

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