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はじめに②

無目的なことに後ろめたさを感じるのであれば、いっそ「無目的に開き直る」ことを目的とするのはどうか。こう考えること自体、無目的に開き直ることを目的とする、という転倒したかたちでも目的を設定せずにはいられなくなっていることの表れだが、それでも、一つの無目的の開き直りの態度の在り方の表明なのだと強弁したい。

目的によって開始されつつも目的を越え出る行為、手段と目的の連関を逃れる活動、それは一言で言うと「遊び」ではないでしょうか。
(略)
遊びは目的に従属する行為、哲学的な用語で硬く言えば、合目的的な活動から逃れるものに他なりません。

『目的への抵抗―シリーズ哲学講話―』 國分功一郎

「無目的に開き直る」という目的が、「合目的的な活動から逃れるもの」としての「遊び」に昇華すること。それは「遊び」と言っても、「こんなにキラキラした日々を送っています!」と遊んで、「ドーダ」することではないはずだ。なぜなら、それは結局、

グルメブームにおいても、「世間の流行についていかなきゃいけない」とか「画像をネットにアップロードしなきゃいけない」といった目的が先行しており、お店に行って何かを食べることはその目的のための手段になってしまっている。

『目的への抵抗―シリーズ哲学講話―』 國分功一郎

というのと変わりないからだ。

では、無目的に開き直った先にある「遊び」とは何か。
私はある目的のために生活することではなく、日々の生活それ自体を味わうことだと言ってみたい。そして、このように日記を書くことは「遊び」の一つの試みなのであると主張したい。それは、生活を描くという遊びであり、その遊びに興じることで、日々の解像度も上がり、生活自体をより味わえるようになる、つまり「遊ぶ」ことができるのではないか、と。
(後述するが、この考えは千葉雅也さんの影響を強く受けている。)

日々をただ綴ることも、書くうえで一つの無目的の開き直りの態度である。
書くことに限らず、表現すること(芸術)は他者に向けて何かを伝える「必要」があるからするもので、それが明確でないままに書いたり、他者に時間を使わせてまで読ませたりするなんて、と詰問する門番が私の中で支配的だった。

「必要」は、本来、「それを書いておきたい」という衝動がわずかでもあれば良いということだったのに、世間的な「必要」、すなわち目的や価値、意味と結びつき、門番はむしろ、その衝動の方を疑うようになっていた。「これを書いて、何になるんだ」「なぜこれを書きたいのか」と問う門番に答えられず、長らく書くのをやめていた。

そんな時に会ったのが、千葉雅也さんの著書だった。

芸術においては、無駄な時間をとることが、まさにその作品のボリューム、物量になるわけです。作品には、大きさ、長さ、情報量といった、一定の量的規模がある。芸術作品とは、目的を果たすための道具ではありません。それ自体として楽しまれるもの、すなわち「自己目的的」なものが作品であり、「サスペンス=いないいないばあ」の遅延が作品のボリュームなのです。(kindle版p77)

芸術に関わるとは、そもそも無駄なものである時間を味わうことである。あるいは、芸術作品とは、いわば「時間の結晶」である。(kindle版p147)

センスの哲学』 千葉 雅也 

人生は、生まれてから死ぬまでの時間のことで限りがあるから、できるだけその時間を有用に使わなければならなず、無駄にしてはいけない。無目的に文を書くことは有用ではなく、無駄なのだからやめてしまえ、と門番に尋問されて縮こまっていたところに、「そもそも無駄なものである時間を味わうことこそ芸術である」と開き直る強力な人が隣に出てきたのである。
この千葉さんの制作論・芸術論は「必要」にがんじがらめになっていた私にとって革命的だった。

確かに、考えてみれば、その「有用」とか「無駄」はその実けっこう曖昧で、そもそも「有用」「無駄」というのは何を意味しているのか、誰にとって「有用」「無駄」なのか、はっきりしないままに「有用」なことをしよう、「無駄」にしないようと漠然と焦っている。
だが、そもそも私たちはある目的のために生きているのではない。なぜなら、人間を、その目的が達成できなかったら役立たずな部品扱いすることになり、目的達成されたらされたで用済みということになるが、それは絶対に認められないからだ。
人生の意味や価値についても、そもそもそんなふうに大雑把に語られてたまるはずがないのだが、そういうものがあるとしたら、それはむしろ日々の生活に存するものではないだろうか。
偶然生きている現在という時間を味わい、偶然生きあわせた人を大切にし、偶然持ち合わせた自らの身体や関心に応じて表現する。いささか陳腐な言い方だが、それは奇跡で愛すべきことだと思うし、それを「無駄」だと言って切り捨てることに、私は絶対反対である。

ひとことで言えないから、わからなかった、要するにどういう意味? ということになりがちだが、その先へとセンスを開いていくには、小さなことを言語化する練習が必要である。
それは、重要とは思えないちょっとした何かでも、どうなっているかを「観察」して言語化する練習です。(略)そういう言語化には心理的なハードルがあったりする。意味がない、無目的だと思えるからです。
 日常のささいなことを、ただ言葉にする。それはもう芸術制作の始まりです。ものを見る、聞く、食べるといった経験から発して言葉のリズムを作ることだからです。もう文学です。

『センスの哲学』 千葉 雅也

「必要」を問う門番は、今も消えてはいない。
「必要」を話題にするのはもう三回目(かそれ以上)だし、いままで支配的だった考えはそう簡単に消えない。これから滞在記を書くうえでも、「必要」を自らに何度も問い、逡巡することになるだろう。
だが、それは悪いことではない。「必要」自体を問い詰めすぎるのは問題だが、「必要」をもとに何をどう書くかを問うならば、その門番は敵ではなく味方になる。無目的に生活を描くことを「時間の結晶」にするための助けにもなるだろう。

例えば須賀敦子さんのエッセイのような、「時間の結晶」と言うのにふさわしい滞在記をはじめから書けはしないだろうし、いつまでたっても黒歴史と言いたくなるような駄文しか書けないかもしれない。それでも、ちょっとでも心が動いて書いておきたいと思ったなら、無目的・自己目的であることに開き直って、それを書いていきたいと思う。

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