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気まぐれだからこそのかわいさ

キッチンから庭を見ると、灰色のネコが庭を歩いている。近くにいたイザベルに「あ、庭にネコがいるよ!」と思わず呼びかけたが、ネコが庭に入って来たのはまずかったかも、と一瞬焦った。なぜなら、それは私が以前に一度、ネコを家に招き入れてしまったせいかもしれないと思ったからだ。幸い、イザベルは「Oh là là ! ネコが庭に入って来たのは初めて見たわ!」と少し驚いていたが、不快そうな様子もなく、追い払うようなこともせず、そのネコが庭の塀を越えて出ていくのを窓から静かに二人で見守った。

ネコが庭に来るのは日本の家では嫌なこととして認識されていたから、つい、ここでも嫌がられるかと思った。父はかつてネコに引っ掻かれたせいでネコがあまり好きではないし、飼い犬のモモは「何奴だ!?」とうるさく吠えるし、糞を残されるのも避けたかったから、ネコが庭に来ると物音をたてて追い払っていた。
そういう家庭で育ったので、「ネコか犬、どっちが好き?」と聞かれるときには迷わず「犬」と答えていた。だが、今、少し揺らいでいる。

朝8時頃、バス停に向かう道を「今日はいるかな〜」と歩いていると、灰色のネコは私を待っていてくれたかのように車の下からスルッと出てきてくれる。嬉しいことにけっこう懐かれていて、最近ではとうとう転がってお腹を見せてくれるまでになった。
はじめて帰り道で会ったときには、その後に急ぎの用事もなかったし、心ゆくまでのんびりと座って撫でたり、一緒に歩いたりした。気づいたら家の前までついて来てしまっていて、家に入れるつもりはなかったのだが、門を開けたときに、スルッと庭に入り込んでしまった。
「あー、ダメダメ!」
自分の家ではないし、もし庭を荒らしちゃったらまずい、と抱き上げて外に連れ出したが、はじめて抱っこできて嬉しかった。腕のなかで感じた重さ、あたたかさ、柔らかさ。ネコは抱っこしてみると思ったより大きくて重かった。

夕方でまだ日が出ていたので朝に会う時よりも黒目が細くなっている。
ついてまわって歩くネコ
あるお宅の前で
家の前で

気まぐれなネコに懐かれることの嬉しさは、飼い犬のモモに懐かれるのとはまた違う嬉しさがある。(というか、正直に言うと、悲しいことにモモにはそれほど懐かれていないのだが)
忠犬ハチ公のように一途なのもいいけれど、気まぐれだからこそのかわいさ、近づきすぎないことで保たれる愛情もある。ネコに会うときには愛情を感じているが、私は毎日会わなくたって構わない。でも、毎日会いたいとは思わないからといって愛情がないわけではない。いつも一緒にいなくたって、付かず離れずだっていいのだ。それと愛情の有無や深さは全く別の話だ。

それは千葉さんの言う「猫的無関係性」に近いのかもしれない。

僕は猫がとても好きだ。ツイッターには猫好きをアピールする人が大勢いるが、眉唾だと思っている。猫は犬と違ってベタベタした関係性を嫌う。よくいる猫好きは、猫が嫌う態度で猫にアプローチしているとしか思えない。で、僕ほど猫的無関係性を大事にする人はそういないと自負してきたのである——この文章以来。

千葉雅也『僕/猫』

現代社会、とくに同調性が強く求められる日本では、できるかぎりいつでも細かく人に気づかいをしなさい、という、関係性の規範から来るストレスが増大している。僕はそうした状態を「接続過剰」と呼んできた。ところで、猫は気まぐれで、人にくっついたり離れたりする。関係したり無関係になったりする。だから、猫と遊ぶことは接続過剰の緩和になるのではないか。猫カフェが提供するのは「無関係による癒やし」なのではないか。

千葉雅也『アメリカ紀行』

そういえば、学校の先生であるサラの言うことにはボルドーにも猫カフェがあって、そのうちの一軒は日本のお店らしく、「ネコマタ」というらしい。
少し気になるが、私はこの灰色のネコをかわいく思うのであって、それほどネコ全般を好きになったわけではないし、私からすれば猫カフェもネコに媚びる場所で、ベタベタしすぎな気がするから、今のところ行くつもりはない。
だが、一応場所だけ確認してみたら、学校からの帰り道に立ち寄れるところにあるとわかった。それこそネコのように気まぐれに行ってみたいと思うかもしれない。

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