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はじめに①

駅の改札で母と別れて少し涙目になっていた感傷的な気分が、丸く黄色い照明がなんだか満月みたいだなぁなどと思いながら出発ゲートに向かう呑気さに変わったのは、いったいどの時点だっただろう。

乗換案内のアプリに示された通りに電車を乗り換えて成田空港に行き、淡々とチェックインを済まし、係員の指示通りに電子機器をトレイに出しながら搭乗手続きをしている自分が、なんだか別人のように思えてくる。これから飛行機に乗るのは自分だというのに、どこまでも他人事のような気がしてならない。自分の足で歩いているのに、動く歩道に乗って運ばれているような気さえしてくる。
自分の身体がひとつの荷物のように運ばれていく。車で、電車で、飛行機で。その時刻に、その乗り物に乗ることになっているから、行く。

「もしここで引き返したら、どうなるかな」なんて思っていたのは、普段からちょくちょく利用していた東京駅までくらいのもので、その先の見知らぬ駅になると、まだ日本にいるというのに、もう引き返せないほど遠くに来てしまったという気になっていた。引き返したらどうなるだろうと想像していたのは、予定されているものを裏切ったらどうなるだろうという天邪鬼的な気まぐれであるとは思うが、そもそも引き返したいと微塵も思っていなかったらそんな想像はしないのかもしれない。

2023年の5月から6月の三週間にかけて、ヨーロッパの四カ国—イギリス、フランス、イタリア、スペイン―をまわった。その旅行の前までは、受験勉強のおかげで基本的な理解があった英語圏の国、つまりイギリスか、大学で第二外国語として選択したスペイン語圏の国、すなわちスペインに行くつもりだったが、思いがけず、一年滞在して人々の生活をもっとじっくりと見てみたいと思ったのはフランスだった。

少しかじったことがあるとは言え、ほとんど忘れていたフランス語を勉強したり、友だちの結婚式が8月にあったり、9月に行くのが縁起が良いと言われたりして、今日2024年の9月13日に出発することになった。「行きたい」と思った2023年の6月から一年以上が過ぎているわけで、その間に気持ちは強くも弱くもなった。気持ちが弱くなった時は、「行かないことには人生が始まらない」という大仰でぼんやりとした閉塞感を拭い去るために、行かねば、と思うことにして準備を進めた。

フランスに行きたくなったのは2023年の旅行がきっかけだった。では、そもそもなぜ海外に行きたかったのかというと、ただ行きたかったからだ。このトートロジーは学生の頃には「社会に出る前に他国を見てくるのはいいことだよね」という雰囲気で難なく通じていたのに、学生ではなくなると途端に「え、何しに行くんですか」と問われることが多くなった。それだけならまだしも、お金を出してくれた両親に「なぜそれを許せるのか」と問うているのを何度も耳にした。

旅行でなく海外に行く、というと何か明確な目的や用事があると思うのが普通だろうと思う。しかし、私はどうかというと、「これをしに行くんです」と確固たる自信を持って言えるような目的や用事は無い。語学学校に通ってフランス語を学ぶことにはなっているのだが、それが目的かというと違う気がする。確かに、日本語とは違う思考の型(言語)を得たいとか、シャンソンの歌詞の意味をもっとよく理解したいとか、発音を良くしたいとは思うのだが、帰国後にフランス語を使う職業に就きたいというわけではないし、どれもフランスに留学する目的だと明言するほど強い動機になっているとは言えない。

現代社会はあらゆるものを目的に還元し、目的からはみ出るものを認めようとしない社会になりつつあるのではないか

『目的への抵抗―シリーズ哲学講話―』 國分功一郎

「ただ行きたいから、行くんです。」とはっきりきっぱり言えたらよかったものの、それらの問いに、というか、背後にある「社会」に気圧されて、聞かれるたびにますます答えに窮するようになった。2023年の旅行のときに思った「もっとよく生活を見てみたい」という理由さえ怪訝な顔をされることもしばしばで、そういう顔に接するたび、フランスに行くと人に話すこと自体が億劫になっていった。

その無目的を咎めるような後ろめたい気持ちは、今でもなくなってはいない。「引き返したらどうなるかな」などと思っていたのも、無目的なままに一人フランスへ行かなくても、みんなと日本で過ごしていたらいいじゃないか、という気持ちがどこかにあったからかもしれない。

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