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男性作家が何故女性心理を描けるのだろう

ということが常々疑問だった。同じ疑問を覚えた作品は過去に三つある。先日読んだ有島武郎の『或る女』はその一つだ。今回ネットを検索してみて初めて知ったんだが、『或る女』にはモデルがあるそうだ。従軍記者と結婚するもすぐに離婚。再婚のためアメリカに渡ろうとして船員の事務長と恋に落ちアメリカに上陸することなしに帰国。といったあたりは同じである。有島武郎がそのモデルと直接話をしたのかどうかはわからない。彼女から直接心情を聞いたのであればそれを小説に書けないでもないと思われるが風聞によってのみ書いたのだとすればやはり疑問は残る。周囲の女性に感想を聞くなどがあったろうか。

三つの内のもう一つは太宰治の『女生徒』である。だが、まぁ、これはその理由は氷解しているので、いい。

そしてもう一つが三島由紀夫の『永すぎた春』である。といってもかれこれ30年くらい前に読んだきりなので具体的に覚えていない。若い男女が付き合ってるんだが、付き合いが長くて結婚できずにいる、そんな風な小説だったと思うが思い出しついでにもう一度開いてみる、か? それにしても、三島由紀夫と女性心理なんて、どうにも結び付かない。私の偏見か。


太宰の『女生徒』は元となった実在の女生徒の日記があったそうだ。『有明淑の日記』という。入手は面倒だが読もうと思えば読める。太宰がその日記を奪い取り勝手に小説にしてしまったというのではない。女生徒の方から太宰に送り付けてきたようだ。

母が太宰が好き(だったことがあったような気がする)なので話してみたことがある。

「太宰ってそういうとこがあるのよ」

そーゆーとこ?
そーゆーとこって、どーゆーとこ?
人の文章をさも自分の文章として発表すること?
でも、それってええのん?

『ええのよ、送った人は太宰に使ってほしいと思って送ったんだから。』

え?
是非これを小説にしてくださいと思って自分の日記を送ったん?

『そう、太宰が好きだからね』

…………。

好きな作家に小説にしてほしいと思って、自分の日記を送る。よくわからん。

このことについては読書メーターでも話題にしたことがあったが、「使ってほしいから送った」という意見が大半であった(いや、大半というほどにたくさんの人と話したわけでもないのだが)。

だがしかし。

仮に女生徒の日記が送られてきたとして、使うかなぁ。太宰の『女生徒』は淑日記の一部を取り出して並べ替え継ぎ足し付け足しして出来上がっている。淑日記の一部というのは、『女生徒』のどのくらいを占めるのだろう。少なくとも半分は下るまい。だとすると、『女生徒』の半分以上は太宰ではない少女の手になる文章なのである。「いや、それでも原文の雰囲気は残しつつも多少は書き換えたんでしょ?」と考えるのは間違いである。淑日記を使う箇所は丸々そのままの文章で使っている。そのまんまである。ある意味、すごい。思い切ったことすると感嘆さえ覚える。

実話に触発されて、あるいは友人や家族の生き方に心動かされて、あるいは昔物語に印象を得て、あるいは他の小説に魅了されて、そして自らの物語小説を紡ぐことは少なからずあるだろう。でも、これはどうなのだろう。文章そのまま転用というのは。

どうも、これを書くと太宰を腐しているような気になってくる(腐しているのか)。

ある作品があって、その作品そのものに対してではなく、作品の成立過程を云々することに意味はあるのか。

ない、かもしれない。

下敷きにした文章があれば、ついついそれと比較してしまう。これは私の性格でしかないわけで。


さて、太宰の『女生徒』はわかった。

では、有島武郎はどうだったろう。彼はどうやって葉子の心情を描き得たのだろう。

そして、三島由紀夫は?

いつかわかったりするかしら。


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