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幸徳秋水『死刑廃止』

秋水のタイトル画像がなんだかいつもどす黒い感じなので華やかにしてみた。秋水だって、そんなに黒黒としたものばかりでは面白くないだろう。などと勝手に思う。

そう言えば、秋水が死刑について語っていたっけ。そう思ってこちらで検索した。

本当にこのサイトは素晴らしい。何度リンクを貼っても足りないくらいだ。「死刑」と検索するたけでポンポンと列挙してくれる。

それで見つかったのは2つ。

第4巻
死刑廃止‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥49

第6巻
死刑の前‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 542

『幸徳秋水全集』

『死刑の前』はもういい。
何度読んだか知れない。

『死刑廃止』

ここにはいったい何と書いてあるだろう。

だがその『死刑廃止』の前に、『死刑の前』で何を語っていたのか少しおさらいする。青空文庫『死生』から「死刑」を検索してみた。「死刑」を含む文章だけを引用してみようか。

検索結果はこうなった。35件。そう多くはない。

幸徳秋水『死生』から「死刑」を検索

 私は死刑に処せらるべく、今東京監獄の一室に拘禁せられて居る。
 嗚呼死刑! 世に在る人々に取っては、是れ程忌わしく恐ろしい言葉はあるまい、いくら新聞では見、物の本では読んで居ても、まさかに自分が此忌わしい言葉と、眼前直接の交渉を生じようと予想した者は一個もあるまい、而も私は真実に此死刑に処せられんとして居るのである。

幸徳秋水『死刑の前』 死生

出だしの文章である。今、自身がおかれた状況を説明している。

左れど今の私自身に取っては、死刑は何でもないのである。

幸徳秋水『死刑の前』 死生

一般には忌まわしく恐ろしくもある死刑だ。だが、その死刑を何でもないというのだ。

百年の後ち、誰か或は私に代って言うかも知れぬ、孰れにしても死刑其者はなんでもない。

幸徳秋水『死刑の前』 死生

なんでもないを繰り返す。

死刑! 私には洵とに自然の成行である。

幸徳秋水『死刑の前』 死生

洵とには「まことに」と読むそうだ。
「まことに自然の成行」
死刑が自然の成行とは。死刑になりたくて行動していたわけでもあるまい。

私が死刑を期待して監獄に居るのは、瀕死の病人が施療院に居るのと同じである、病苦の甚しくないだけ更に楽かも知れぬ。

幸徳秋水『死刑の前』 死生

瀕死の病人も死刑囚も、死というものを視野に入れているということは同じであろうが、死刑囚は病に苦しめられてはいないわけで、その分だけ病人よりもマシであるらしい。

これ私の性の獰猛なるに由る乎、癡愚なるに由る乎、自分には解らぬが、併し今の私に人間の生死、殊に死刑に就ては、粗ぼ左の如き考えを有って居る。

幸徳秋水『死刑の前』 死生

獰猛(どうもう):性質がわる強く、荒々しいこと。
癡愚(ちぐ):愚かなこと。
粗ぼ(ほぼ):だいたい。おおよそ。

「併し」は「しかし」と読む。

「これ」とは、「死刑がなんでもない」という考え方のことであろうか。そんな風に考えるのは自分が獰猛であるからか、はたまた愚かであるからか。

『死刑に就ては、粗ぼ左の如き考えを有って居る』
ここの『左』とはその後に語ることを指すわけであるが、この章のタイトルは「死刑」ではなく「死生」ではなかったか。

死刑は最も忌わしく恐るべき者とせられて居る、然し私には単に死の方法としては、病死其他の不自然と甚だ択ぶ所はない、而して其十分な覚悟を為し得ることと、肉体の苦痛を伴わぬこととは他の死に優るとも劣る所はないかと思う。

幸徳秋水『死刑の前』 死生

死刑は忌まわしく恐るべきか。私には他の病死などの不自然死とかわりはない。そう繰り返す。のみならず、覚悟がてきることと、苦痛を伴わないことを考えればむしろ優れているのではないかとさえ言う。

左らば世人が其を忌わしく恐るべしとするのは何故ぞや、言う迄もなく死刑に処せられるのは必ず極悪の人、重罪の人たることを示す者だと信ずるが故であろう、死刑に処せらるる程の極悪・重罪の人たることは、家門の汚れ、末代の恥辱、親戚・朋友の頬汚しとして忌み嫌われるのであろう、即ち其恥ずべく忌むべく恐るべきは、刑に死すてふことにあらずして、死者其人の極悪の質、重罪の行いに在るのではない歟。

幸徳秋水『死刑の前』 死生

死刑を恐れるのは死を前にしてのことではなく、家門の汚れとして忌み嫌われるということでしかない。死刑を忌むのは死ぬということに対する恐れではなく、極悪人という烙印を押されることにあるのではないか。そういうことか。

仏国の革命の梟雄マラーを一刀に刺殺して、「予は万人を救わんが為に一人を殺せり」と法廷に揚言せる二十六歳の処女シャロット・ゴルデーは、処刑に臨みて書を其父に寄せ、明日(ママ)に此意を叫んで居る、曰く「死刑台は恥辱にあらず、恥辱なるは罪悪のみ」と。

幸徳秋水『死刑の前』 死生

「梟雄」は「きょうゆう」と読む。残忍な人物を言うらしい。マラー、シャルロット・コルデーについてはネットに詳しい。「死刑台は恥辱にあらず、恥辱なるは罪悪のみ」を引用したのは死刑という刑罰が決して恥ずべきものではないと言いたかったのだろう。

死刑が極悪・重罪の人を目的としたのは固よりである、従って古来多くの恥ずべく忌むべく恐るべき極悪・重罪の人が死刑に処せられたのは事実である、左れど此れと同時に多くの尊むべく敬すべく愛すべき善良・賢明の人が死刑に処せられたのも事実である、而して甚だ尊敬すべき善人ならざるも、亦た甚だ嫌悪すべき悪人にもあらざる多くの小人・凡夫が、誤って時の法律に触れたるが為めに――単に一羽の鶴を殺し、一頭の犬を殺したということの為めにすら――死刑に処せられたのも亦た事実である、要するに刑に死する者が必しも常に極悪の人、重罪の人のみでなかったことは事実である。

幸徳秋水『死刑の前』 死生

極悪人が死刑にされたことは確かであるが、それだけではない。多くの善良な市民が些細なことで刑死していることも間違いなくある。刑死者が必ずしも極悪人とは限らない。

石川五右衛門も国定忠治も死刑となった、平井権八も鼠小僧も死刑となった、白木屋お駒も八百屋お七も死刑となった、大久保時三郎も野口男三郎も死刑となった、と同時に一面にはソクラテスもブルノーも死刑となった、ペロプスカヤもオシンスキーも死刑となった、王子比干や商鞅も韓非も高青邱も呉子胥も文天祥も死刑となった、木内宗五も吉田松蔭も雲井龍雄も江藤新平も赤井景韶も富松正安も死刑となった、刑死の人には実に盗賊あり殺人あり放火あり乱臣賊子あると同時に、賢哲あり忠臣あり学者あり詩人あり愛国者・改革者もあるのである、是れ唯だ目下の私が心に浮み出る儘に其二三を挙げたのである、若し私の手許に東西の歴史と人名辞書とを有らしめたならば、私は古来の刑台が恥辱・罪悪に伴える巨多の事実と共に、更に刑台が光栄・名誉に伴える無数の例証をも挙げ得るであろう。

幸徳秋水『死刑の前』 死生

かつての刑死者を幾人もあげる。
ペロプスカヤはロシアの女性テロリスト。女性が多いな。オシンスキーについてはわからなかった。列挙された人名を確認してみたいがいずれまた。長くなる。

西班牙に宗教裁判の設けられたる当時を見よ、無辜の良民にして単に教会の信条に服せずとの嫌疑の為めに焚殺されたる幾十万を算するではない歟。仏国革命の恐怖時代を見よ、政治上の党派を異にすというの故を以て斬罪となれる者、日に幾千人に上れるではない歟、日本幕末の歴史を見よ、安政大獄を始めとして、大小各藩に於て、当路と政見を異にせるが為めに、斬に処し若くば死を賜える者計ふるに勝えぬではない歟、露国革命運動に関する記録を見よ、過去四十年間に此運動に参加せる為め、若くば其嫌疑の為めに刑死せる者数万人に及べるではない歟、若し夫れ支那に至っては、冤枉の死刑は、殆ど其五千年の歴史の特色の一とも言って可いのである。

幸徳秋水『死刑の前』 死生

西班牙はスペイン。仏国はフランス。その他、日本も挙げる。ロシアや中国に至っては冤罪による刑死ばかりだと。冤枉は冤罪のことのようだ。

 観て此に至れば、死刑は固より時の法度に照して之を課せる者多きを占むるは論なきも、何人か能く世界万国有史以来の厳密なる統計を持して、死刑は常に恥辱・罪悪に伴えりと断言し得るであろう歟、否な、死刑の意味せる恥辱・罪悪は、その有せる光栄若くば冤枉よりも多してふことすらも、断言し得るであろう歟、是れ実に一個未決の問題であると私は思う。

幸徳秋水『死刑の前』 死生

真に残忍なるをもって刑死した者より、むしろ冤罪による無辜の者たちの刑死の方が多いのではないか。そう案じているようだ。

故に今の私に恥ずべく忌むべく恐るべき者ありとせば、其は死刑に処せらるてふことではなくて、私の悪人たり罪人たるに在らねばならぬ、是れ私自身に論ずべき限りでなく、又た論ずるの自由を有たぬ。唯だ死刑てふこと、其事は私に取って何でもない。
 謂うに人に死刑に値いする程の犯罪ありや、死刑は果して刑罰として当を得たる者なりや、古来の死刑は果して刑罰の目的を達するに於て、能く其効果を奏せりやとは、学者の久しく疑う所で、是れ亦た未決の一大問題として存して居る、而も私は茲に死刑の存廃を論ずるのではない、今の私一個としては、其存廃を論ずる程に死刑を重大視して居ない、病死其他の不自然なる死の来たのと、甚だ異なる所はない。

幸徳秋水『死刑の前』 死生

そもそも死刑という刑罰は必要なのか。学者もその意義を疑っている。と言いつつも「死刑の存廃を論ずるのではない」と。どっちなんだという感じであるが、この後に「死刑廃止」を読むと更に混乱する。

とにかく、『死刑の前』についてはここまでとしよう。


その九年ほど前。

秋水は死刑廃止に関する文章を書いている。「万朝報」に書いたものと思われる。新聞に掲載したものであってそれほどに長くはなく全文を転記できないでもないくらいの分量だが、さすがにそれは少しためらわれて一部のみを引用させていただく。現代でも通用する素晴らしい文章である。

 刑法改正に就いて議すべきのこと多し、就中吾人の最も重要緊急の事として希望する所は死刑廃止是れ也。
 人は人を殺すの権利なし、殺人は如何なる場合に於ても罪悪也、個人の手に於てするの殺人が罪悪なると同時に、私刑の時に於てするの殺人が罪悪なると同時に、國家法律の名に於てするの殺人も、亦罪悪ならざる可らず、然り文明の民は決して國家法律が此罪悪を行ふことを恕す可らず。

〈中略〉

 更に見よ、彼の一點の惡意を存せざるも、其行為の唯だ當時の法律に抵觸するが故に之に死刑を宣するが如きは、惨にして酷ならずや、彼の亂臣賊子として死する者、數年若しくは數十年の後に於て嘖々として忠臣義士の名を稱せらるゝ、往々にして然り、國事犯罪人の死刑の如きは、非理の尤も甚だしく暴の尤も極まれる者也。
 故に死刑を存するは文明國民の耻辱也、而して實に罪悪也、吾人は刑法改正案が衆議院委員會の案上に在るの今日に際して熱心に其廢止を主張して、委員諸君の思を此に致さんことを希望する者也。
(明治三十五年三月三日 秋水)

『幸徳秋水全集』第4巻 死刑廃止

明治の時代に死刑制度の廃止案が提出されたと聞いたことがある。未だ死刑という刑罰がなくならないことからするとそれは廃案になったのだろう。秋水がこの記事を書いたのはその頃かもしれない。明治時代の死刑廃止法案について少し検索してみたが容易には見つからなかったので詳しくはわからない。

秋水はここでなんと言ったろうか。

最も重要でしかも緊急に議論すべきこととして死刑の廃止を挙げている。人は人を殺す権利はなく、個人によるもの、私刑によるものはもとより、たとえそれが国家法律の名に於てなされるものだとしても、あってはならないことである。文明の民は国家法律がこの「罪悪」を行うことを決して恕しては(ゆるしては)ならない。

ただ一点の悪事があったと言えども、それはただその時の法に触れたというだけでしかなく、もって死刑を宣告するなどというのは惨忍であり残酷であるとしか言いようがない。国を乱し親に背くとして刑死したものが、わずか數年、もしくは数十年の後には国に親に忠誠であるともてはやされることも往々にしてあり、のみならず國事犯罪人の死刑に至っては道理にかなわないこと甚だしく、暴力の最たるものと言わねばならない。

死刑という刑罰を有するのは文明國民の耻辱に他ならず、罪悪でしかない。刑法改正案が衆議院委員會の案上に上った今日、熱心にその廢止を主張し、委員諸君の思がここに結実することを願ってやまない。

少々、意訳したのであしからず。

さて。

当然のことながら先の『死刑の前』と比べてしまう。あまりの違いに驚きは隠せない。「死刑は罪悪であり廃止すべきである」とそう言った人が、その九年後に「死刑などなんでもない」などと言うだろうか。私も死刑廃止を求める者であり秋水の『死刑廃止』の文には全てにおいて賛成するところであるが、何年かの後に「死刑などなんでもない」という心境に至るような気がしない。秋水にとってこれは思想信条であったはずだ。国の国家の強権圧政を排除したかったはずだ。大逆事件で捕らえられた者の中には社会主義無政府主義を捨てると言った者もなくはないようだ。もちろん、そう言ったからといって責めたいわけではない。だが、一方で秋水はその主義主張を変えることはなかった。その人が、こと死刑に関してこれほどに言葉を変えようか。今まさに『國事犯罪人の死刑の如きは、非理の尤も甚だしく暴の尤も極まれる』という、道理なく、ただ暴力をもって死罪にされようとしているまさにその時においてである。

秋水は獄中でもう一つ筆をとっている。それは弁護人に宛てた陳情書である。否、弁護人を介して判事検事に訴えた陳情書である。そこではこのように言っている。

扨て頃來の公判の模樣に依りますと「幸徳が暴力革命を起し」云々の言葉が、此多數被告を出した罪案の骨子の一となつて居るにも拘らず、検事調に於ても豫審に於ても、我等無政府主義者が革命に對する見解も、又た其運動の性質なども一向明白になつて居ないで、勝手に憶測され解釋され附會されて來た爲に、餘程事件の眞相が誤られはせぬかと危むのです。就ては一通り其等の點に關する私の考へ及事實を御参考に供して置きたいと思ひます。

『幸徳秋水全集』第6巻

そう言って、革命とは何か、無政府主義とは何かを滔々と述べている。そこには誤解されてはかなわないという思いが見える。主義主張を変えるなど微塵も見えない。それがたった一月を経ずにこれだけ変わり得るだろうか。仮に死刑判決を得たとは言え。いや、むしろ死刑囚の立場に立ってこそ書くべきことがあるはずと考えはしなかったか。そう思わずにはいられない。

とは言うものの。

結局のところ、これは私の感想に過ぎない。神崎氏が「これは秋水の文だ」と思ったのと同じように、私は「これは秋水の文だろうか」と疑問に思っただけである。

『死刑の前』を書き写してみて改めて思うが、刑死者の歴史を挙げるのに意外に女性が多い。その時にふとこれはすが子が書いたのか、と思わないでもなかった。だが、菅野すが子『死出の道艸』を読むと少々違うようにも思う。『死刑の前』は『死出の道艸』よりも筆が立つように見える。

『死刑の前』をもう少しつつき回せば、何か見えてくるだろうか。

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