三島由紀夫『永すぎた春』
というわけで。
その「わけ」というのはこちら→
などと、リンク先だけを示して「はい読んでください」というのは申し訳ないのでかいつまんで話すと、
昔、三島由紀夫の『永すぎた春』を読んだ時に「何故、作者は男性なのに女性の気持ちがわかるんだろう」と思ったことがある
という内容であった。ただ、どこのどんな状況のどんな言葉に対してそう思ったのか、皆目記憶にない。記憶になければないで、また気になってくる。勢いに乗じてというか、勢い余ってというか。仕方がないので再読してみた。と言っても一日で読めてしまったのだが………。
さて。
「何故、作者は男性なのに女性の気持ちがわかるんだろう」
そう思った文章はどんなものだったのか。
わからん。
わからなかったのだ。
するすると読み終わってしまった。
え?
どれ?
という感じである。
35年も経つとこうなってしまうのか………。
いやいや、気を取り直して。
郁雄と百子は一月に婚約し、翌年三月に結婚することになった。『永すぎた春』というのは、この一年三ヶ月の婚約期間を指す。そんなに永いか? と思わないでもないが、婚約期間とすれば少々永いかもしれない。だがしかし、永くなった理由というのが郁雄が大学生であるということにあって、そもそも一年三ヶ月などあっという間じゃないかなどと思うのはこちらが年を取りすぎたからに過ぎず、当人達にとっては永いかもしれない。永いか永くないかはともかく、物語はその婚約期間中の話である。
ぼんやりとした記憶では、郁雄の方が浮気をしたかしなかったかというようなあたりだった気がする。確かにそういった話はある。だとすると………。これか?
わざわざ「!」マーク付きで強調いただいている。恋人の弱さを見てゾッとする……のか? これに共感したんだろうか。共感して、三島由紀夫に何故それがわかるのかと、そう思ったのか。
うーん。
恋人の弱さを見ても、むしろ人に見せない弱さを見せてくれたという優越感を覚えそうな気もする。小説におけるこの時の「弱さ」の対象が「肉欲」であるということも無視はできないが。「肉欲」だとしても、そんなに拘ったか。若い時には違っただろうか。
仮にそうだとしても、だ。
ということは、そんなに特別でもないような気もする。男性がそのように想像しても、想像したとしてもおかしくはないのではないか。むしろ、男性から見た「女性の男性感」、「普通の女は、強くて我慢があって誠実な男性がよかろう」というようなステレオタイプ的な「女性が好む男性像ベストワン」のようなそんなイメージに見える。「何故男性にわかるのか」と疑問に思うほどのことかしらん。
それにしても………。
50の後半を過ぎてから読む小説でもないかな。
昔の感情を呼び起こされるかというと、そういうわけでもないし。
表題の写真はいささかくたびれているが、私の持っているものはさらにくたびれている。新潮文庫の旧装丁で私が持つ三島由紀夫作品はこの装丁のものが多い。解説で十返肇氏がこう言っている。
今回の再読では、確かにそれを強く感じた。一方で、若い頃に読むと違った感じは受けるかもしれないという気もする。
50代に読んだ青春物語であった。