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佐和文書、大石誠之助手記

大逆事件の獄中手記について、少し不思議な記載を見つけた。こちらに記載されている文章である。

浜畑栄造 著『大石誠之助小伝』,荒尾成文堂,1972.5. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/12192497 (参照 2025-01-14)

該当箇所を少し抜粋してみる。

神崎清さんの編集した「新編獄中手記」の中の「大石誠之助」の「獄中にて聖書を読んだ感想」は、GO兄即ち五点沖野岩三郎氏に宛てたものである。解説によると「一月十一日付の通信では『聖書をよんだ感想を少しかきました。検閲が済んだら送りませう』と豫告のあったままで、約四十年間消息をたっていたのが、この『獄中にて聖書を読んだ感想』の一編にほかならぬ。沖野牧師も、本書の活字をとおして、今はなき友の手記にはじめて接するわけである。」と書かれてゐるが、事実「新編獄中手記」の二五五頁のGO兄から二六一頁七行までは、既に沖野岩三郎氏の著「生を賭して」の中に採録されている。
〈中略〉
「生を賭して」は戦前の出版である。この時既に前半の記載があり、且つドクトルの直筆が沖野氏の手に渡ったとすれば、「新編獄中手記」の手記は典獄などの複写したものか、佐和慶太郎所蔵の物を見なければどうとも判断のつかぬ事である。

浜畑栄造 著『大石誠之助小伝』

「新編獄中手記」に収録されている手記の一部が、既に戦前に公開されていた? 


先に引用した浜畑栄造 著『大石誠之助小伝』の文について少し補足しておく。

文中にある「GO兄」は誤字というわけではなく、大石誠之助が沖野岩三郎氏のことをこのように表現していたようだ。「GO」は即ち「沖野岩三郎」のイニシャルである。

また、「ドクトル」は大石誠之助のことを言う。大石誠之助が医師であったことからこのように称されることが多いようだ。

さて。

ここで問題になるのが、

戦前か戦後か

ということである。
なんとなれば、「新編獄中手記」において大石誠之助の手記は戦後に発見されたものとしているからである。

一方、その大石誠之助の手記の一部は沖野岩三郎氏によって既に戦前に公表されている


神崎清氏が編纂した『大逆事件記録 新編獄中手記』には13名の方々の獄中手記が収録されている。
以下に列挙してみる。

幸徳秋水
 死刑の前〈佐和慶太郎所蔵〉
 陳状書〈今村力三郎所蔵〉
 基督抹殺論自序〈『基督抹殺論』より〉
 漢詩〈佐和慶太郎所蔵〉

菅野すが子
 死出の道艸〈佐和慶太郎所蔵〉

新村忠雄
 獄中日記〈佐和慶太郎所蔵〉

古河力作
 Ⅰ 僕〈佐和慶太郎所蔵〉
 Ⅱ 余と本陰謀との關係〈佐和慶太郎所蔵〉
 Ⅲ 定價表について〈佐和慶太郎所蔵〉
 Ⅳ 遺書〈佐和慶太郎所蔵〉
 Ⅴ 聖書書入れ〈古河三樹所蔵〉

森近運平
 回顧三十年〈佐和慶太郎所蔵〉

大石誠之助
 獄中にて聖書を讀んだ感想〈佐和慶太郎所蔵)〉

成石平四郎
 無題雜感録及日記

奥宮健之
 Ⅰ 公判廷ニ於ケル辯論漑記〈佐和慶太郎所蔵〉
 Ⅱ 政見摘記(假題)
 Ⅲ 自分ノ無政府主義者ト政見ヲ異ニセル諸點〈佐和慶太郎所蔵〉
 Ⅳ 上申書〈佐和慶太郎所蔵〉

内山愚童
 平凡の自覺〈内山政治 所蔵〉

新村善兵衛
 獄中日記(假題)〈佐藤慶太郎所蔵〉

峰尾節堂
 我懺悔の一節〈佐和慶太郎所蔵〉

成石勘三郎
 回顧所感〈沖野岩三郎牧師から神崎清に贈呈〉

〈〉内は出典である。
〈佐和慶太郎所蔵〉は、佐和氏が戦後に入手したという文書を示す。一部記載のないものもあるが、『新編獄中手記』に記載がなかったのてそのままとした。〈佐藤慶太郎所蔵〉は〈佐和慶太郎所蔵〉の間違いではなくこれも『新編獄中手記』にそうなっていたものである。〈沖野岩三郎牧師から神崎清に贈呈〉は、最初の『獄中手記』出版時に沖野岩三郎に献本した際に返礼として贈られたものだそうだ。

問題の大石誠之助の手記は「新編獄中手記」に収録されていて、佐和慶太郎所蔵となっている。佐和慶太郎所蔵と言えば、要するに幸徳秋水の「死刑の前」と一緒にブローカーによって戦後に佐和慶太郎氏のところに持ち込まれたものである。その一部が戦前に公表されたものと同じとは、どういうことだろう。

今、大石誠之助の手記とされる3種類の文書がある。

(1)沖野岩三郎氏が大逆事件当時に獄中の大石誠之助から受け取ったもの

(2)戦後佐和慶太郎に持ち込まれた文書のうち、(1)と重複するもの

(3)戦後佐和慶太郎に持ち込まれた文書のうち、(1)に含まれないもの

AAAパターン
考えられることの一つとして、(1)(2)(3)の全てが大石誠之助の筆によるという可能性がある。(1)を郵送してしまえば手元になくなり、書いたことを忘れてしまうかもしれない。なので複写を取ったかもしれない。

ABAパターン
(2)だけが、大石誠之助以外の筆になるものである。『大石誠之助小伝』の著者が言う通り典獄などが複写したものかもしれない。ただ、その場合は、大逆事件被告達が郵送した他の手紙葉書は複写しなかったのかという疑問がある。

AABパターン
(3)だけが、大石誠之助以外の者が書いた可能性である。(1)(2)は大石自身が複写したことになる。

ABBパターン
もう一つは、(2)(3)が大石誠之助とは別の人によって書かれたものというものである。誰かがでっち上げたのか。

ABCパターン
何故かはわからないが、(1)(2)(3)全て異なる人が書いた可能性もないではない。(2)は典獄が複写し、(3)は誰かがでっち上げた、とか。

ABA、AAB、ABCの三つのパターンは、(2)と(3)の筆跡が異なることになる。この場合、佐和文書を見て筆跡の違いが気にならなかったのかということも懸念される。

佐和文書の大石誠之助のものは半紙十九枚のとじあわせ、毛筆墨書。典獄木名瀬の檢印がある。日付は一月六日、一月二十三日、一月十八日。この順になっている理由は不明。檢印は全体に一つなのか、日付毎にあるのかもわからない。獄内に散らかっていたものを処刑後に誰かが適当に綴じたのではないかというのが神崎氏の推測である。沖野氏が受け取ったものと重複しているのは一月六日付のもの。沖野岩三郎氏が受け取ったのはいつか、それに檢印はあったのか。(1)の一月六日付のものは明らかに沖野氏に語りかけるもので「ですます調」であるが、(2)(3)は「である調」となり書き方も断片的である。

いずれにしても。

浜畑栄造氏も言う通り、佐和慶太郎の所蔵物を見ないことには何とも言えない。

(1)が2部あったのは何故か。
それは大いに気になるところではあるが。


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