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有島武郎『或る女』

え、え、え、こんな終わり方だっけ?
続きを期待して頁をめくったら、いや、青空文庫で読んだから正確には頁をめくったわけではないが、まあ要するに続きを期待してタップしたら、そこにはたった一行と(後編 了)の文字。

え?
終わり?
うそ。

唐突に終わった作品というのは他にもあったな。
なんだっけ?
そうだ、『雪国』。
あれも続きを期待して最後の頁をめくったら唐突に終わったのだったか。

えー、こんなで終わるのか…………。
貞世は?
倉知は?
いやいや、そもそも葉子は?
みんなどうなる?

余韻を残して終わるような小説は、もちろん、ある。いや、そもそも余韻ってなんだ。

よいん【余韻】鐘をついた時などの、あとに残る響き。転じて、あとに残る味わい。言外の余情。

『Google辞書』

そう。余韻ってそんなものよね。鐘はもうつき終わっている。『或る女』を読み終わっても葉子がまだ私の中にいるような、そんな感じ。いや、でも、これって、この終わり方って、あとに残るんではなくって、まだ鐘つき終わってないやん。

なんてことだ。


『或る女』を読むのは二回目だ。

読書メーターを見れば前回は2020年に読んでいる。

数日前に仕事で多少滅入ることがあって、何か没頭できるものはないかと考えて思いあたったのがこれだ。なんで『或る女』を思い出したんだろう。

確かに没頭はできた。没頭はできたのだが、感情はざわざわしっぱなしで疲れるったらありゃあしない。あぁもうとても続きを読めないと思っては本を閉じ、でもやっぱり気になるのでまた開く。そんなことばかりを繰り返したものの、結局は最速で読了したような気がする。お陰で寝不足である。


主人公は早月葉子。25歳。
とにかく、もう、すごい女性である。

少し引用してみる。

葉子はその時十九だったが、すでに幾人もの男に恋をし向けられて、その囲みを手ぎわよく繰りぬけながら、自分の若い心を楽しませて行くタクトは充分に持っていた。

まず美人である。すぐに噂になるほどの美貌である。なので、ものすごくモテる。
そして十九歳にして既に男の扱いを心得ている。

その紅い口びるを吸わして首席を占めたんだと、厳格で通っている米国人の老校長に、思いもよらぬ浮き名を負わせたのも彼女である。

嘘か本当か。もはやそれは問題ではない。
そんな噂を不思議とも思わせない。
すごいのは口びるを吸わせた(かもしれない)ことか。
それとも首席であった(かもしれない)ことか。

上野の音楽学校にはいってヴァイオリンのけいこを始めてから二か月ほどの間にめきめき上達して、教師や生徒の舌を巻かした時、ケーべル博士一人は渋い顔をした。そしてある日「お前の楽器は才で鳴るのだ。天才で鳴るのではない」と無愛想にいってのけた。それを聞くと「そうでございますか」と無造作にいいながら、ヴァイオリンを窓の外にほうりなげて、そのまま学校を退学してしまったのも彼女である。

 

美貌だけでなくヴァイオリンの腕もいい。だが認められなければヴァイオリンを(文字通り)投げ捨てて、さらには退学してしまう。ヴァイオリンも学校も音楽の才能も、そんなことを惜しむような女性ではない。

葉子の目にはすべての人が、ことに男が底の底まで見すかせるようだった。葉子はそれまで多くの男をかなり近くまで潜り込ませて置いて、もう一歩という所で突っ放した。恋の始めにはいつでも女性が祭り上げられていて、ある機会を絶頂に男性が突然女性を踏みにじるという事を直覚のように知っていた葉子は、どの男に対しても、自分との関係の絶頂がどこにあるかを見ぬいていて、そこに来かかると情け容赦もなくその男を振り捨ててしまった。

男はみな葉子の意のままである。いや、意のままにならない男もおるんだが、葉子はそれさえも意のまましようとする。それが古藤だ。その古藤に対してさえこんな風に考えるのである。

古藤の童貞を破る手を他の女に任せるのがねたましくてたまらなくなった。幾枚も皮をかぶった古藤の心のどん底に隠れている欲念を葉子の蠱惑力で掘り起こして見たくってたまらなくなった。

ただ、古藤は最後の最後まで葉子にはなびかないんだな。むしろ嫌っていたか。いや、嫌おうとしていたのか。

そして。

十五の春には葉子はもう十も年上な立派な恋人を持っていた。葉子はその青年を思うさま翻弄した。青年はまもなく自殺同様な死に方をした。

有島武郎『或る女』

葉子に泣きつく男は数知れない。小説中にも、木部、どこのかよくわからない男(葉子の記憶にさえない)、岡、木村。みな、側にいてくれ、あるいは側にいさせてくれと泣いて懇願する。自殺したという青年は名前さえ明らかにされない。

肉欲の牙を鳴らして集まってくる男たちに対して、(そういう男たちが集まって来るのはほんとうは葉子自身がふりまく香いのためだとは気づいていて)葉子は冷笑しながら蜘蛛のように網を張った。近づくものは一人残らずその美しい四つ手網にからめ取った。葉子の心は知らず知らず残忍になっていた。ただ、あの妖力ある女郎蜘蛛のように、生きていたい要求から毎日その美しい網を四つ手に張った。そしてそれに近づきもし得ないでののしり騒ぐ人たちを、自分の生活とは関係のない木か石ででもあるように冷然と尻目にかけた。

彼女の奔放淫蕩な性格生活は人々の好奇の目に晒され時には非難の目を向けられる。だが、彼女は動じない。『ののしり騒ぐ人たち』は彼女にとって『木か石』でしかないのだ。

ところが。

その葉子が惚れる男が現れる。倉知である。

倉知とはどんな男だろうか。

葉子との出会いが印象的だ。

葉子の結婚相手である木村がアメリカにいるのでそれを訪ねて行く船中。一人の大柄な船員がいた。それが倉知である。船の事務長だ。

船が出港しようとする時、葉子にすがりつき泣きつく一人の男。名前もわからない。葉子の記憶にさえない。男の執拗さにいい加減困り果てていた葉子の窮地を救ったのが倉知である。

「どれ、わたしが下までお連れしましょう」

と言うや否や、泣きつく男を『小さな荷物でも扱うように、若者の胴のあたりを右わきにかいこんで、やすやすと舷梯を降りて行った』のである。仮に細身であったとしても男一人を『右わきにかいこんで』とはどういう状況だろう。そもそも「かいこむ」がわからん。

かいこむ【掻い込む】〔「掻き込む」の変化〕(一)かかえこむ。「槍をー」(二)すくい入れる「水をー」

えーと。
大の男を右わきに抱え込んだのか?
二歳の息子なら抱え込んだことがあるけど。
文字通り右わきに。
成人男性一人を右わきに抱えるとは。
いくら巨漢と言えども想像が難しい。

倉知は右わきに抱え込んだ男を桟橋に降ろすと、ぶら下がっている一本の綱を伝って桟橋から離れる船に上がってきたのである。体は大きく、力もあり、敏捷でもあるらしい。

それまでの葉子の周りにはいなかったタイプではあるまいか。

さらに。

倉知が葉子に泣きつくようなことはない。
むしろ我関せずといった態度である。
酒と葉巻の臭いの染み付いた大きく屈強な男。

惚れる…………かもな。
いや、今どきは流行らんか。

この時以来、葉子は倉知が気になって仕方がない。
それが前編の三分の一も進んだあたりか。

後は…………。

後はもう…………。

葉子の狂気にあてられるだけである。


ネットにある感想を読むと、葉子に馴染めない、もっとはっきりいうと嫌いだとする人も少なくない。倫理的に少し欠ける女性なのだろう。それが他の人を近寄り難くする。

だが。

葉子はこうも考える。

自分はどうしても生まるべきでない時代に、生まるべきでない所に生まれてきたのだ。自分の生まるべき時代と所とはどこか別にある。そこでは自分は女王の座になおっても恥ずかしくないほどの力を持つ事ができるはずなのだ。生きているうちにそこをさがし出したい。自分の周囲にまつわって来ながらいつのまにか自分を裏切って、いつどんな所にでも平気で生きていられるようになり果てた女たちの鼻をあかさしてやろう。若い命を持ったうちにそれだけの事をぜひしてやろう。

生まるべきでない時代
生まるべきでない所
そういう時処に生まれてきた。
そうなのかも知れないと、ふと思うのである。
今の時代だったらどうだったろうと。

容赦もなく男を振り捨ててしまうのは今でも喜ばれることではないかもしれない。倉知と恋仲になりながらも木村とも縁を切らないのも褒められることではないかもしれない。だが、今なら、今の時代なら容貌だけでなく才気にも富んだ葉子なら女一つで自立できたかもしれない。とも思う。

『木村君にあなたを全部与えてください』と懇願する古藤に、葉子はこういう風にも思う。

結婚というものが一人の女に取って、どれほど生活という実際問題と結び付き、女がどれほどその束縛の下に悩んでいるかを考えてみる事さえしようとはしないのだ。

葉子が生きた時代、女が一人で収入を得て一人で生きていくのは極めて困難だった。職を追われた倉知から金を得るのが難しくなった葉子は、木村に無心する。倉知との関係を続けながらも木村に理屈をこねて金を送らせる。それ以外の選択肢というと、倉知と別れて木村と一緒になることだ。それはおそらく、到底葉子にはできないことだ。結婚というものは、今よりもずっと女性にとっては牢獄だったのかもしれない。生きて行くためには想わない男性と一緒になるしかない。想いの人とは添い遂げられない。それだけでも、昨今の女性には理解が難しいかと思われるが、結婚すれば更にはまた家事に縛り付けられる生活である。加えて虐げられる。男性中心の社会であり、男性中心の家庭である。

葉子は極端な人柄であり、嫌う人もいるのだろう。でも、それは本当に葉子の、葉子だけのせいだろうか。男たちや社会にも何か負うところはないだろうか。ふと、そんな風にも思う。違うところであれば、違う時代であれば、もっとおおらかに素直に生きることも、もしかしたらできたのかもしれない。

泣きつく男たちを冷ややかにながめ、何をすることもなくただ流されるだけの女たちを横目に、葉子は一人自らの価値観を貫き通して生きてゆく。媚びることはしない。金や物にも執着しない。唯一執着したのは倉知だけだ。その倉知に対する執着と想いに、ともすれば私も引きずり込まれそうになる。その時、ふと葉子に乗り移られたのかとさえ感じる。妻でも母でもない。ただ一人の女に戻されてゆく。

ずっとそんな状態で読み続けたのかもしれない。



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