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大鷹節子『戦争回避の英知』 小野寺武官の娘からの平和の願い

先日、小野寺百合子『バルト海のほとりにて』について書いた。

今回の読んだ『戦争回避の英知』は、その御息女・大鷹節子氏によるものである。外交官である夫について、この方も諸外国を渡られたようだ。父・小野寺信氏がラトビアに武官として派遣された時、両親に随行した。著者が幼少の頃のことである。夫の父は外交官・大鷹正次郎で、彼もまた1940年頃にラトビアにいた。この人は杉原千畝氏の上司にあたられるらしい。1940年8月に帰国後、松岡洋右外相により外務省を追われた四十余名の一人であったという。李香蘭(山口淑子)が義姉にあたるなどとさらっと書かれていたりもするので、読んでるこちらは驚いたりもする。

本文から引用しつつ、語ってみる。

世界のどの国でも国歌と国旗に対しては、起立して最高の儀礼を以て遇するべきなのに、「君が代」と「日の丸」は、私にいつも戦時中の国民学校生活を思い起こさせ、私の神経は異常に反応する。私だけが例外かと思っていたら、「君が代」を歌うと戦争の悪夢が甦るという、私の同世代の人たちの誰もがそう感じていることを発見した。〈中略〉強制的に歌わされた戦時教育の悪夢から脱却できないのだ。

国旗、国歌については今でもいろいろに問題があるが、それを国旗国歌を許容することができないのは思想信条によるものだとばかり思っていた。だが必ずしもそれだではない。「日章旗」と「君が代」にフラッシュバックを覚える人たちもいるのだと改めて知った。

小説家・原民喜氏が、市電の架線にこする音と光に驚いて立ちすくんだのは原爆投下がフラッシュバックしたからだった。それと同じなのである。


太平洋戦争開戦後しばらくは戦勝に沸いた。「勝った、勝った」と喜ぶ本国に小野寺氏が打った電報は次のようなものである。

緒戦ノ戦果ハ同慶ニ堪エザルモ、戦局ノ前途ハ遼遠ナリ、征戦両略ノ凡百ノ手段ヲ尽クシ、戦争ヲ速ヤカニ終局ニ導カル丶ヨウ念願シテヤマズ

開戦後のいくつかの戦いの成果は自分にとっても喜ばしいものであるが、戦いの前途ははるかに遠い。あらゆる手段を尽くして戦争を速やかに終われるよう念願してやまない。

そう言っている。開戦早々、戦勝に沸く本国に終戦を求めているのである。


東条首相は陸相の時代から異論に聴く耳を持たないばかりでなく、自分に反対して大局的見地に立った意見を表明する陸軍幹部たちを報復的に前線司令官に左遷した。最も正しい判断を以て作戦指導できる常識ある軍人が前線へと追いやられたのだ。〈中略〉陸軍の良識派は対ソ防衛が手薄になる結果をもたらす戦線拡大を望んでいなかった。しかし現実にそれは達成されず、東条首相のお気に入りの陸軍上層部により最悪の道へと誘導され、中国戦線拡大から日米開戦への決断が下された。

少し長く引用してしまったが、著者は東条英機を厳しく糾弾している。独断的であり、多様な意見を聞くこともせず、のみならず反対意見に立つものを中央から遠ざけ、更には前線に追いやる。小野寺氏と同期であり親友でもあった臼井大佐は東条首相との確執により浜松航空隊教官に左遷され、九八航空隊長となって戦死した。また、アメリカ国務長官ハルと日米開戦回避案「日米了解」を作成した岩畔大佐も左遷されている。著者はこうも言う。

狭量な東条首相こそが日本を破滅に導いた一番の責任者だったのは間違いないと確信している。

戦争とは、極々一部の者たちによって始められるのだとつくづく思う。ヒトラーもそうであったが、東条英機も自分に煩わしく感じる人たちを遠ざけてきたのだ。それだけでなく前線に送ったとすれば、それは粛清であったとも言える。悲しいかな、今の現代に目を向けたときも同じ景色が見える。幸いにして日本は戦争状態にはないが、世界を眺むれば未だ争い紛争戦いはなくならない。そしてそこには、戦争主導者と言われる人がいる。そういう人たちを決して政治の中枢に置いてはならない。


だが一方で、和平に尽力した人たちも確かにいた。

1945年4月。
在日スウェーデン公使であるバッゲがスウェーデンに帰国することなったとき、彼にスウェーデンによる和平交渉を依頼したのが、時の外相重光葵である。朝日新聞社・鈴木文四郎の強い勧めもあったという。だが、バッゲがスウェーデンに向かうまでに外相は重光葵から東郷茂徳へ交替し、河辺虎四郎参謀次長と第二部長有末精三中将が東郷外相にソ連への和平仲介を進言する。ヤルタ密約でソ連の対日参戦が決まっている中である。

1945年5月
ドイツが降伏する。

〈藤村中佐は、対米和平交渉をめざした「作戦緊急電」35通の暗号電報を米内光正(ママ)海軍大臣と軍令部総長宛に発信した。〉

「米内光正」は「米内光政」が正しいように思うがそのままとした。藤村中佐とはスイスの海軍武官である。彼もまた和平に向けた暗号電報を送り続けていた。「作戦緊急電」とはどのようなものであったろうか。

朝日新聞記者・笠信太郎氏の上申文も名文であるとして紹介されている。

今ヤ戦ヒヲ継クルハ易ク、矛ヲ収メルハ難シ。若シ一人ノ真ノ名将アラハ、矛ヲ捨テテ敢然大君ト国民ヲ守ラン

戦争を継続することは簡単であり、矛を収めることは難しい。だが、武器を捨てて敢然と大君と国民を守らんとする者があれば、それこそが名将であろう。そう言っている。そう言える人がこの国にいたというだけでも救われる思いである。

まだいる。

無条件降伏したドイツから、扇一登氏ら日本海軍一行のスウェーデン入りを協力したのが三井物産の和久田弘一氏である。ところが、スウェーデンの滞在ビザを持たずに入国した海軍一行はイェンチョピンに収容される。あろうことか、日本公使の要請であったという。日本公使が海軍一行を足止めしたのだ。陸海軍武官が公使館を乗っ取り和平工作に動くことを懸念したためであるというが、ドイツも降伏し、日本も本土を攻撃されているという厳しい状況において、まだ戦うというのか。和平工作に協力しようという民間人がいる一方で、それを阻止しようとする公使がいる。

扇大佐は戦後このような言葉を残した。

『小野寺少将のような人は陸海にも大勢いたんだよ』〈中略〉『ただ、陸軍では、戦争を避けたいと思っている英米協調派の人たちが、上層部の責任ある地位につくことはほぼ不可能だった。大陸戦線へ送り出されるか、さもなくば体よく海外駐在を命ぜられるが落ちで、一旦外へ出たら長い間中央へは帰してもらえないんだ。』


それまで漠然として退屈にさえ感じていた授業に突然変化が起こった。とくに日本史の授業ガ楽しくなった。聞いたこともなかった「縄文時代」「弥生時代」「遣隋使」「遣唐使」「仏教の伝来」「シルクロード」など、中国大陸、朝鮮半島経由の日本への文化の伝来を全く新鮮な思いで勉強した。私は中国大陸、朝鮮半島は日本文化の先生だったという基本的な歴史さえ教えられていなかったのだ戦争中に私の心に浸透していた中国蔑視教育に対して、突如、思わぬ世界が目前に拓けたのは、とくに生江義男先生が主事に、そして東京教育大の日本美術史教授・木代修一先生が桐朋女子学園の校長に就任されてからである。

ほらね。やはり日本はアジア諸外国を見下してきたのだ。アジアの解放などと、聞いて呆れる。

それにしてもこういう所の情報統制は徹底している。子どもたちにはしっかり蓋をしているわけだ。一部の情報に蓋をして育てるなど、愚の骨頂だ。そんなことで教育が成り立つと考えているのであれば、大間違いである。だがしかし、そういった教育は戦後なくなったのだろうか、とも思う。文科省の指導要領に縛られたり、教科書検定があったりするのは、今でも統制しようとする現れではないかと感じないてもない。おそらくは、きっと、教育の平等を持ち出すのだろうけど。試しに、一度教科書検定をなくしてごらん。歴史教育はもっと楽しくなり、もっと有意義になるのではないだろうか。


全神経を集中して働いた過去から、全く新しい仕事に転身した父にはどうしても納得できない疑問が常に頭から去らなかった。それは、とくに手ぬかり無く発信した特別の電報「ヤルタ密約」電報の行方である。

それは私も大いに気になる。小野寺氏は戦後も十二分に耳を澄ましたことだろうが、誰も「ヤルタ密約」電報を読んだという証人が出てこない。「ヤルタ密約」電報は、「届いていなかったことにされていた」ということを小野寺氏が知ったのは1983年だという。それはこのような文章だった。

1983年に父は坂田二郎著『ペンは剣よりも』(サイマル出版会、1983年)の中にこんな文章を見つけたのだ。「実は佐藤大使も『不覚にも日本側としては、私も、東京も、その事実を知ることができず、終戦後に至ってようやく密約の存在を知った』(『回顧八十年』)と告白しているように、知らぬがホトケの日本だったのである。」

佐藤大使とは、当時の駐ソ大使・佐藤尚武である。

「ヤルタ密約」電報は不着だったのか。
それとも、誰かが握りつぶしたのか。
その疑問は消えぬまま、小野寺氏は1987年に亡くなる。

日本の暗号電文のほとんどは連合国によって解読され、資料館に残っている。だが、小野寺氏が「ヤルタ密約」電報に使用した特別暗号は解読できなかった。

参謀本部が受信電報をどのように扱っていたのか。本書に少し書かれていて、興味深い。

問題は情報部に送られてくる電報は、連合国側から発せられた情報か、枢軸国側を情報源とするかで全く扱いが正反対のことが多かった。見解が入り乱れている電報を総合する役割は第四班。その重要な使命にもかかわらず、適切な判断をする機能が、まずしっかりと確立されていなかったらしい。
〈中略〉
参謀本部が受信した電報は、たとえば1945年のドイツ降伏までの5ヶ月間にベルリンの日本大使からの電報が300通、1944年には600通あったそうだが、その中から最も都合の良い電報を最優先させて、日本にとって都合の悪い状況を知らせた電報を捨てて、作戦部や上層部には届かないようにしていたようだ。ベルリンならOKだが、ストックホルムは無視だったらしい。
〈中略〉
現実には大本営の中でも次長、作戦部長、作戦課(その中の課長以下ほんの一部)、軍部課(その中のほんの一部)の一握りの「奥の院」があって、戦争の趨勢や軍の士気に重大な影響のあるものは、情報部にも見せず、一部の作戦参謀だけで握りつぶしていたという

これらの文面だけでは、結局のところどこで握りつぶしていたのか少しわかりにくいが(私が当時の軍の組織構成を知らないことも相まって)、いずれは知れる時もあるかもしれない。それはさてを置くとしても、都合がいいか悪いかだけで判断するようではあまりに思慮が浅すぎる いや、思慮が浅いというそんな言葉では到底足りない。もはや愚かだ。都合の悪い情報をこそ吟味すべきであるのにそれを捨ててるなど、宝をドブに捨てるようなものである。政府でそれをやっていたのだとすれば、国の不幸としかいいようがない。いや、あの当時でも選挙はあったのだから、国民も愚かと言えるのか。そして、戦後、それはどれだけ変わったのだろう。どうにもあまり変わっていないような気がする。


重要情報を握りつぶされたという人は他にもおられたらしい。

堀栄三氏。元陸軍参謀。

自ら打電した「台湾沖航空戦」での日本軍の大戦果に疑問を呈した重要情報を握りつぶされ、父と同様無念にも大勢の兵を死に追いやった経験をされた。

本書にはそう記されている。堀栄三氏のことについては保阪正康氏も書かれている由(『瀬島龍三 参謀の昭和史』)。あいにく、「台湾沖航空戦」について詳しくないのだが。その打電した内容もわからず。どんなものだったのか是非読んでみたいのだが。


「ヤルタ密約」から終戦まで、半年という時間があった。その半年を振り返えって、「ヤルタ密約」電報を握りつぶしたことに対する著者の怒りは大きくなる。電報を十分吟味し、もし終戦を目指していたならば防ぐことができたかもしれない犠牲がそこにある。その数は計り知れない。

ヤルタ会談は、1945年2月。以降、本土空襲も激化する。東京、横浜、神戸、名古屋、大阪、中国地方、四国、九州。4月1日、アメリカが沖縄に上陸。4月5日、ソ連は日ソ中立条約不延長を通達。5月7日、ドイツ無条件降伏。7月28日、ポツダム宣言拒否。8月6日、広島原爆投下。8月8日、ソ連参戦。8月9日、長崎原爆投下。

著者の怒りは日本の参謀にだけ向かうのではない。

連続した本土大空襲は軍事施設を標的としたというより一般市民を恐怖に陥れ戦意低下を目的とした爆撃だったとしか言いようがない。

疎開していた私でさえ学校の先生から教え続けられたように、自決を促す教育は多くの少女を自決に追い込み、約10万の民間人が犠牲となった。

かたわらでソ連を仲介とした和平工作への打診が始まったが、ソ連が回答を曖昧に引き延ばしていた理由を参謀本部は知っていたはずである。

「ヤルタ密約」電報が握りつぶされ、一方でソ連が和平工作に応じない理由を参謀本部が知っていたということに、少々混乱するのだが。 

トルーマン大統領は原爆投下で、ルーズベルトとスターリンが約束したソ連の対日参戦を阻止しようとしたのではなかったかとも思える。

そして「原爆を投下しなくても日本は降伏する」とトルーマン大統領に進言したのは、アイゼンハワー総司令官であったという。

大陸ではなく、国土が島である日本の広島、長崎への原爆投下は人体実験だったのではないかとさえ私は疑っている。

広島、長崎の罪なき人々を陥れた地獄絵と放射能後遺症の恐ろしさを知ると、核兵器の使用は、人道上どのような理屈をつけても正当化されてはならない

たとえ原爆が完成していたとしても、ヨーロッパ大陸のドイツに対して原爆投下があっただろうか。核兵器の使用こそ、一般市民の大量殺人に至る現代最悪のテロだと私は思っている。

このように、空襲、原爆投下をも厳しく批判する。近年では、空襲、原爆が人道に反するという言動もあるように聞く。それには賛同するが、その声を聞いてもらうためにも、まずは日本が行った人道に反する行為に対しても真摯に向き合い反省せねばならない。そうでなければ誰も聞く耳を持つまい。

さらに引用が長くなって恐縮だが、書き残したいという気持ちがどうしても捨てられなかった。

 ソ連対日参戦は、ロンドンから得た「ヤルタ密約」情報通り、正確にドイツ降伏から3ヶ月を経た8月8日に始まった。奥地へと入植した27万ともいわれる満蒙開拓団にとって、ソ連の侵攻は全く予期しないものであった。一方、参謀本部の戦争指導部も関東軍もソ連軍の極東への兵力大移動とアメリカが送り込んだ大量の軍事物資のシベリア鉄道による移送が何を意味するのか知っていたはずである。しかし優秀といわれた満州の関東軍の精鋭部隊の多くが南方の作戦に転出されて(その大部分は輸送船が撃沈された)、満州で徴兵された訓練されていない兵と貧弱な装備では、とてもソ連軍の侵攻には対応できないことは明らかだった。そこで開戦時には南満州・通化にまで防衛戦を下げることを決めておきながら、一方では満蒙開拓団や一般人には何の警告も与えなかった
 満州在住日本人の数は155万人、そのうち開拓団の50%はソ満国境の近くにいたという。すでにソ連兵や兵器が続々と東へ移動しており、対日参戦の意図を陸軍は知っていた。8月のソ連侵攻と同時に軍部上層部とその家族だけは列車に家財道具を積み、移動の手を打ったが、一般人の乗車は拒否されたという屈辱的な体験を私と同年代の人から何回聞かされただろうか。
 成年男子は徴兵されて、開拓団に残っていたのは老幼婦女子ばかり。侵攻してきたソ連軍の襲撃、略奪、暴行、そして乳児は死に、幼子をやむを得ず置き去りにした人たち。「大地の子」たちの悲劇。そして朝鮮半島からさらに祖国を目指す徒歩での逃避行のような想像を絶する経験談は尽きない。民間人の犠牲に加え、徴兵された60万人がシベリア捕虜収容所へ連行され、少なくとも6万人が収容所でなくなったと言われる。

この半年も前にソ連参戦の情報を握りつぶしたその責任は非常に重い。その情報を本国に訴え続けた武官の娘の悲痛な叫びのように聞こえる。

「漁夫の利」とは、たった1週間ほどの参戦で、このようにやすやすと獲物を得たソ連のために用意された言葉である。

絶望的な作戦で硫黄島を死守した軍人としての栗林中将がなぜ称えられるのか、女性の私には理解できない。大勢の部下の命を預かっている総司令官として、絶望と見たら停戦、降伏する決断をする人を私は尊敬する。


以下、本書で紹介された書物達である。母・小野寺百合子氏の『バルト海のほとりにて』で挙げられたものは省いている。

西村敏雄『北欧諸民族の祖国愛』

画像はないんだが、リンク先は大阪府立図書館の蔵書検索結果である。国立国会図書館で検索してもヒットしなかった。まことに不思議である。この『北欧諸民族の祖国愛』には、ソ連に占領された直後のバルト三国の悲劇が語られているという。当時、ラトビアのベルジンス副大統領が手漕ぎボートでバルト海を渡りストックホルムの日本陸軍武官を訪ねたという。


2008年9月22日 朝日新聞夕刊「『記者風伝』第2部・笠信太郎 その5」

本書に次のようにあった。

政府中枢に無視されながら一刻も早く和平を、と志を同じくする「笠信太郎、藤村喜朗、扇一登、小野寺信」の線がはっきりと書かれていた。

四名の方については前述した。この記事も読んでみたいものである。


外務省編『日本終戦史』(北洋社)

バッゲ氏に和平交渉を依頼したいきさつが書かれている。


戦史研究家 藤岡康周『扇海軍大佐と和平工作』(「丸」別冊「戦争と人物13」)
阿川弘之エッセイ『九十八翁を囲む会』

扇大佐についての書物。


20世紀メディア研究所「インテリジェンス」(「インテリジェンス」9号、2007年11月28日)

小野寺信氏の巣鴨刑務所での尋問調書が公開されたらしい。であるならば読んでみたい。


堀栄三著『大本営参謀の情報戦記』(文藝春秋、1989年)

堀栄三氏も、自らの暗号電文を握りつぶされた。それに関する調査だろうか。


保阪正康著『瀬島龍三 参謀の昭和史』(文藝春秋、1987年)

『誰が堀栄三氏の情報を握りつぶしたのかを追及している』とある。瀬島龍三について知りたいわけではないのだが。


阿川弘之著『大人の見識』
半藤一利、保阪正康共著『昭和の名将と愚将』

小野寺氏について言及されている。


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