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書くのはしんどいけど、書くと考えが深まって創作が深まっていくのでどんどん書いていきましょう。

”よいサービスを考える部”では月に1回程度、読書会を行っています。
何人かで集まって、やいのやいのと意見交換をしています。

その中で「ayukaさんは結構文章を書いてますよね」と言ってもらえて、嬉しさもありつつ、ちょっとびっくりしました。
なるほどたしかにnoteやTwitterで書き物をすることは好きですし、思ったことが良いリズムの文章になると気分がいいです。

ちなみにそのとき挙げていた本はこちら。良い本です。

なかなか『書くこと』を改めて考える機会はありませんので、じゃあ書くことで『書くこと』を考えてみようかしらん、ということになりました。
私たちはなぜ書くんでしょうか。書くことはなぜ必要なんでしょうか。

ざっくり言うと

  • 頭の中で考えていることは散発的でつながりが弱い

  • 話していることはまとまりに欠けるし論理が弱い

  • 書くことによって考えがまとめられるし、深められる

  • だから書こう!

脳内の思考を、書くことで具現化していく

考える:無速度で散発的で不連続

脳内で考えていることに、速度はない。つながってもいない。
シナプスが発火して、線香花火のように言葉やイメージが散っていく。

たとえば冒頭の「ayukaさんは結構書いてますよね」という入力を受けて、私の脳内で起きた反応を表すなら、下図のようなイメージが近いです。

お絵かき帳 (11)
キーワード的に連鎖が起きている。矢印の通りに進んでいくわけでもないかも。

入力された情報に対して、関連するイメージや記憶が呼び起こされて、ブワーッと広がっていく。
情報が雪崩のように浮かび上がって、時に溢れて混乱します。

思いつきで連鎖していくので、元のキーワード(『結構書いてますよね』)とは直接関係がないもの(原子力/エネルギー)も連想されます。
こういう思いつきをそのまま発話してしまうと、非常にハイコンテクストな会話になってしまいます。

HUNTER×HUNTERでもパクノダが次のように言っていましたね。

あたしの質問であんた達の記憶を刺激する
すると池に石を投げたときみたいに記憶の底で沈殿した泥が舞う

HUNTER×HUNTER ヨークシン編より
(ところで今の若者ってHUNTER×HUNTER知ってます?)

まさにまさに言い得て妙で、脳内の思考は水底で舞った泥のようなものです。
その動きはランダムであり、時間が経つと消えてしまいます。

そのままでは人に伝えられないし、後にも残らない。
考えていることはモヤモヤとしたキーワードの集まりでしかありません。なので、きちんと言語に変えて表現する必要があります。

話す:高速で流動的で連続

話すことは時間的な流れがあり、速くて連続的。
ある程度の論理構造を持つが、ゆらぎが大きく、論理も曖昧である場合が多い。

会話はアドリブ的に進んでいきます。
上記の例で言えば、水底で舞った泥についてとっさの説明をするようなもの。
「結構書いてますよね」という入力に対しては、下図の赤矢印の流れを経て応答するのが本筋であったと記憶しています。

思いつきの中から”ストーリーとして成立する組み合わせ”を発見して説明する

しかし、実際の応答ではまず「いや~~……そう……ですかね……?」から発話して、他の話題にちょいちょいと触れていたと思います。会話が下手なので。

青矢印に進んでみて(これじゃないな…)と引き返しながら会話の本線を探す

とりあえず発話してみてから(この文脈でこの応答はおかしいな)と気づいて引き返したり、あまり深く考えられないのでやめてみたり。浮かんだキーワードのなかから、そういった経路探索をすることで会話をしています。
また、各自の発話も、思いつきのキーワードをつなげていく都合上、論理構造が甘かったり、話す順番がずれたりします。難しいですね。

会話の中で、複数の参加者が思い思いに経路探索をしていくので、その流れは非常に移ろいやすいです。

そういう難しさ、移ろいやすさはありますが、話すことは考えることと違って他者を必要とします。したがって、話されるのは意味が伝わるような文章、論理的な文章である必要があります。
論理的な文章を作るために、脳内でうまく経路探索するほか、話している内容を聞いてフィードバックすることもしています。ただこれは無意識的(あるいは訓練が必要)なもので、たとえばイグノーベル賞にある『スピーチジャマー』のようなもので妨害されてしまいます。

というわけで、話すことで脳内のキーワードが結び付けられますが、ランダムさは排しきれず、論理もはっきりしきらないものです。

書く:低速で固定的で連続

さてようやく書くところです。僕もう疲れたよパトラッシュ。
この記事を触り始めてから数日が経過し、文体もテンションもめちゃくちゃです。読んでくれている人ありがとうね…ホンマに…。

さて、書くことです。

書くことには物理的な制限があり、話すことと比べて速度が遅いです。
このために、散発的に発生している思考、水底で舞った泥が沈んでしまうこともままあります。
しかしこの遅さがあるからこそ、ゆっくりとキーワードを取捨選択し、筋の良さそうな経路を選択することができます。
話すことと違って、他者を必要としないこともありますね。

また、書くことは話すことよりもずっと強いフィードバックがかかります。
人間は聴覚よりも視覚が優位な生き物なので、目の前に自分が作った文章が現れて読まざるを得ない状況は、書くことに強く影響します。これさえなければもっと書けるのでは…?
このおかげで、論理構造の破綻を見つけ、よりよい表現を模索し、これしかないという文章を作ることができます。

そして、そのフィードバックは自分への新たな入力となり、再び考えることへと舞い戻らせます。自分で石を投げては泥を舞い上がらせます。
関連するキーワードからフィードバックを受けることで、そのテーマについてより深く考えることができるようになり、新たな視点が生まれ、論理構造が強化されていきます。

オレンジは書き始めてから追加された部分

考える→書く→考える→…というフィードバックループに入り込むことで、さらなる苦しみを味わうことが もっと創作物を作り込むことができるようになり、細やかな表現が、いきいきとした描写が、これしかないという言葉が生まれてきます。

書かなければ思いつかないことがあり、書くことに引きずられて深まっていくのは苦しくて楽しい過程です。
時には舞った泥で何も見えなくなりますが、しばらく待って、落ち着いてから石を投げれば大丈夫。投げる石を変えながら、何度でも挑戦しましょう。いつか泥の中に光るものを見つけるでしょう。

書き物は白紙の荒野を往くが如し

書くことは身体的な動作でありながら、自らの思考に影響を与え、絡まり合うように深まっていきます。選び取られた言葉や文章が、また考える余地を生み、もっともっとと私たちを誘います。

書き物というのは、遅々とした足取りで、白紙を進む単独行です。
真っ白な世界へ足跡を残しながら、この足跡を誰か読み手が辿ってくれると、ただ信じて書く道です。
足跡を省みながら、好きな道を選びながら、かつかつと書き物を積んでいきましょう。
行く先に何があるともしれませんが、少なくとも、足跡だけは残ります。

自分の足跡だけじゃ満足できない?
それなら……一緒に歩く人を見つけるのがよいですね。


ご覧いただきありがとうございます! 知りたい内容などあればご連絡くださいね。