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ヴァージンアトランティック航空破産法適用申請に思う(単なる回顧録)

ヴァージン・アトランティック航空(VIR/VS)が、アメリカにおいて、米連邦破産法15条の適用を現地時間8月4日に申請したというニュースに愕然としました。

(運航は継続しているそうです。でもコロナで便数はきっと激減しているのでしょうね・・・。)

米連邦破産法15条では、米国以外の企業が米国内の資産を保護されるそうで、ヴァージンは、英国法に基づく再建計画を米国の裁判所に認めてもらうために破産法を申請したのだそう。もし承認されれば、運航は継続できるようです。

ちょっと前に、ヴァージンオーストラリアの破綻もニュースになっており、もしや、と思いましたが、やはり航空会社はコロナのせいでかなり厳しい状況にあることを実感しました。

この記事は、客室乗務員に子供の頃から憧れていたのになかなかなれなかった私の単なる回顧録です。しかもめっちゃ長い(汗)ご興味ない方はスルーしてくださいね。

自分で全体を読み直してみて、メッセージが2つあるかなぁ、と思います。あと、現代との共通点が1つあるかな。

①諦めなければ夢は叶えることができる。最後までチャレンジすることが大切。

②ずっと手に入れたかったものを手にした時、既にそれは一番欲しいものではなくなっていることがある。タイミングが大切。

③コロナで大手航空会社がCA採用試験を凍結した今と、バブルが弾けてJALがCA採用を中止した当時、理由は違うけど客室乗務員を目指す人にとって試練の時であることは間違いない。


なぜこのニュースに愕然としたか

私がヴァージンアトランティック航空の破産法適用申請のニュースに愕然としたかと言うと、ヴァージンには深い思い入れがあるから、です。

私は小学生の頃からずっと客室乗務員に憧れていました。
堀ちえみちゃんのスチュワーデス物語を小学生の時に見て、「これが私のなりたい職業だ!」って。

当時、今より外国がもっと遠い存在だったころ、「なるほどザ・ワールド」という番組を見て海外に思いを馳せ、仕事でパリだとかニューヨークだとかを飛び回れるスチュワーデスという仕事に、子供心にも強烈な憧れを抱いていました。

ドラマの舞台がJALだったので、目指すはJAL。

そのために、中学からは英語には誰よりも力を入れていたし、毎月『月刊スチュワーデスマガジン(その後『エアステージ』に改称)も読んで、業界ニュースのチェックも怠らなかった。

実家の近所に、現役JALのCAさんと元JALのCAさんが奇跡的にいらしたので、お話を伺いに行ったりもしました。

高校生になるくらいまでは世間はバブル。「このまま私も華やかなスチュワーデスになるの〜♪」って思ってたのに、客室乗務員になる学生がそこそこ多かった短大に進んだ頃には、儚くもバブルが終了。

そして、就職活動が始まる時期になり、いざJALを受けようというというタイミングで、JALが突然「新卒採用中止」を発表したんです。

JALの CAになることしか考えていなかった私は、目の前が真っ暗。

とりあえずのところは、どこでも客室乗務員になれればいいや!という気持ちで一応ANAも受けましたが、当時のANAは国際線の路線がほとんどなくて、正直全く魅力がなかった。

そう言えば、当時JASっていう航空会社もあったのですが、そこはANA以上にドメスティック。一応受けに行ったけど、JALのような洗練されたイメージがなくて微妙だなぁ、なんて失礼なことを思いながら受験。

そんな態度で受けてたらANAもJASも受かるわけがありませんよね。

当然、両社とも不合格です。

これで、新卒で客室乗務員になるという、小学生からの私の長年の夢はあっけなく破れてしまったのでした。

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全く違う業界に就職

今思えばなんて無謀だったんだ、って自分でもびっくりしますけど、当時の自分はJALのCAになることしか考えてなくて、しかも「なれる」って思い込んでいたので、その他の業界については全く情報収集すらしていなかったんです。

JALは採用中止、ANAにもJASにもフラれた私は、行くところがない!まさかの緊急事態に、急に焦り始めました。

就職活動先延ばしで、系列の大学に編入しようか、とか、とりあえずアルバイトしながら、外資系航空会社のCA採用試験のチャンスを待つか、とかいろいろ考えていたそんな時。

同じ短大に同郷の同級生がいて、地元の就職イベントに誘ってくれたんです。行けばどこかしか採用してもらえるかも、なんて気持ちでついて行きました。

会場に入ると、何やら1カ所だけ大盛況のブースがあったので、何だかも分からずとりあえず行列に並びました。途中でそれが、地元の銀行のブースであることが判明。地銀なんて地味〜だけど、地元では人気企業なのね〜なんて人ごとに思いながら待っていたら自分の番が来て、担当の人と軽く会話をしながらひとまず書類を提出。

後日、筆記試験と面接に呼ばれ、なぜだか分かりませんが、あっさり内定の連絡を頂いたんです。今思えば、本当いい加減な就活だったなぁ。なのに、地銀とは言え地元では最良の就職先であるとされていた銀行に、よくもまあ受かったなぁ、と。

運がよかった、その一言しか思いつきません(汗)

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銀行員時代に続けていたCA受験

こんないい加減な私を受け入れてもらった銀行でしたが、実は私、一番なりたくない職業が銀行員でした(汗)

お堅くて真面目なイメージがどうもダメで。実際は、仕事や社風はもちろん堅いは堅いけど、働いている人は先輩方も楽しい人が多かったし、夏には海、冬にはスキーと同僚の皆さんにいろいろ連れて行ってもらって、それなりに楽しく過ごしていたんです。

でも諦め切れない客室乗務員の夢。

JALは確か、翌々年くらいからいわゆる「アルバイトスチュワーデス」、つまり契約制の客室乗務員として採用活動を再開していましたが、既卒に関しては募集がない年がずっと続いていました。(数回だけ、既卒の募集がかかった時に受けましたが、ダメでした・・・涙)

でも、外資系航空会社がまだあります。当時、インターネットなんてない時代だったので、外資系エアラインは、月曜日のJapan Timesの求人欄に客室乗務員募集広告を出していたんです。

でも地方在住の私には、Japan Timesなんてコンビニに行っても手に入りません。(都内のコンビニには売っていたの)。かと言って、欲しいのは月曜日版だけなのに、購読しちゃうと英字新聞は結構高いからお金がもったいない。ということで、当時実家で取っていた新聞の営業の人にお願いして、月曜日だけJapan Timesを配達してもらうようにしました。(そんなわがままを聞いてくれた新聞屋さんには感謝。)

募集がかかると、採用試験は大体都内で平日に実施されていたため、「体調不良」ということにして有休を取り、受験のため都内に足を運んでいました。

だけど、英語の面接を突破できるほどの高度な英語力がなくて、敗退ばかり。CAへの道のりは険しいものでした。

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英語力が欲しくてアメリカ留学

本気で外資系航空会社のCAを目指すなら、英語力をもっとなんとかしなくては、と以前から漠然と「行きたい」と思っていたアメリカ留学に気持ちが傾いていました。

銀行員2年目の年です。

当時私のTOEICは確か715点だったかな。英検は準1級。外資を狙うなら、800点は欲しいところ。

なりたくてなったわけじゃない銀行員だったのと、アメリカ留学へのワクワク感が心の中で盛り上がり、銀行員2年目の夏から留学の準備を開始。

カリフォルニアLA近郊にアメリカ人の友人がいたので、彼女と、もう1人日本人のルームメイトが暮らすアパートに飛び入りでルームシェアさせてもらうことにして、住む場所を確保。

懸念していた留学用のビザも、お金の節約のために自力で全ての書類を作成してアメリカ大使館に提出し、無事にビザ獲得。

そして銀行を2年2ヶ月で退職し、アメリカへと渡ったのです。

軍資金は、銀行員時代に貯めた自分の貯金だけ。だから1年が限度。

でも楽しかったなぁ、あの時代。無謀だけどやりたいことにはなんでも挑戦できていた時代。「あ〜、私は今、子供の頃にあんなに憧れていた外国に住んでいるんだ!」と思うと、感慨もひとしおだったことを思い出します。

だけど楽しい時間は束の間。お金もなくなり、1年で帰国しました。とりあえず都内の外資系企業に秘書として就職し、CA採用試験の機会を狙っていましたが、程なくしてもう一度、アメリカへ留学する機会が巡って来たのです。

というのは、当時の外資系企業の同僚が、アメリカ人とお付き合いをしていたのですが、そのツテで知り合ったアメリカ人ファミリーが、「留学したいならうちの空いているお部屋を貸してあげるよ」と申し出てくれて。だから、授業料だけ工面すれば、あと1年くらいアメリカで暮らせることになったんです。

アメリカ生活が楽しかったので、機会があればまた行きたいなぁって思っていた私、その話に飛び乗ってしまいました。

またしても無謀かつ無計画な人生(苦笑)

でも、この時まだ私は20代前半でしたから、何も考えずにやりたいことを心のままにやるのが怖くなかったし、やっておいて良かった、って今になると思うのです。

この年になると、やりたいことをやる時に、絶対「リスク」「デメリット」を考えてしまって、現状を少しでも変えることには怖くて挑戦できないことが多いですからね。。。

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アメリカでパニック障害発症

とはいえ、2度目のアメリカ留学は、途中で体調を崩してしまったりして結構大変だったんです。

特に、たまに今まで感じたことがないような動機のようなものに襲われて。心臓が悪いのかと思って、通っていた大学のドクターに見てもらったのですが「You are heathy!」と、中学生でもわかる英語でお墨付きをもらうだけ(汗)

だけどとうとう、その動悸が「発作」のような大きなものとなって、私に襲ってきたのです。「私は絶対心臓が悪いんだ」と確信したけど、ドクターには健康だと言われるし、どうしたら良いのだろう・・・と思っていた頃。

2度目の留学先を紹介してくれた、都内で就職した会社の同僚が結婚してシカゴに住むことになりました。ウェディング出席を兼ねてシカゴを訪れ、せっかくだから1週間か2週間ほど彼らのアパートに滞在させてもらいました。その時に、アメリカ人の旦那さんから「その症状、多分パニック障害だと思うよ。」って言われたんです。

え?

何?初めて聞く言葉。

やっとその頃、インターネットが普及していたので、パニック発作って言葉を調べました。そして症状を当てはめて見ると、「そうそう」「それそれ!」と納得がいく症状が並んでます。

念のため、シカゴに滞在中に、日本人医師がいる病院に連れて行ってもらって、もう一度ちゃんと体に異変がないか調べてもらったのですが、血液検査も異常ないし、多分ストレスでしょう、と精神安定剤みたいなものを処方されて終わり。

日本帰国後に、やっぱり心配になって国立病院でいろいろ見てもらったけど(胃カメラまでやった!)、やっぱり体は健康なので、そのまま精神内科へ。ようやくそこで、私のこの一連の症状が「パニック障害」からのものであると診断がついたのです。

その時の私は、「な〜んだ、じゃ、本当に私、発作が起きても死ぬことはないのね」と、安心してしまったのを覚えています。

(その後、30代になって急激にパニック障害の症状がぶり返して、毎日の通勤電車が怖い、とか旅行に行きたいけど行けない、とかになってしまったのですけどね。。。長くなるのでこの辺りは機会があればまた別記事で書きますね。)

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帰国後は都内のITベンチャーの社長秘書に

2度目の留学から戻った後は、いくつか都内の企業の面接を受けて、その中で最短で内定を下さったITベンチャーの社長秘書の仕事を得ました。

1月末に帰国して、2月上旬に面接、面接の翌日には内定の電話をもらう感じでトントン拍子。まだ帰国して実家に住んでいたので、急いで都内にマンションを借りて、引っ越して3月初めから働きはじめました。

元々銀行員の堅い仕事の雰囲気が苦手だった私は、自由で、まだ出来たばかりで規則なんて何もないようなベンチャーの社風が妙に心地良くて、気付いたらこの社長にこの後約20年もの間、仕えることになったのです。

入社直後から、終電で帰れず、連日タクシー帰宅するような忙しさの職場だったけれど、上場を経験し、社長が芸能人の奥様と結婚し、当時「◯◯ズ族」ともてはやされた最先端のビルに移転して、華やかな秘書ライフを送らせてもらっていまいした。

そんな生活が10年続いたころ。私も36歳になっていました。


諦め切れていなかった客室乗務員の夢

実は、ITベンチャーに勤めてからも、ほんの数回ですが、CA受験に参戦したことがありました。

でも、その頃はもう、パニック障害を持っていて、飛行機が苦手になっていたので、CAになりたいという気持ちよりも「あんなになりたい職業に合格できないまま一生を終えるなんて、悔し過ぎる」、そんな意地というか、執念のような気持ちで受験していたように思います。

そして36歳の1月。KLMオランダ航空で客室乗務員の募集がかかりました。

書類を送ったら、仕事中にいきなり電話がかかってきて、「これから英語面接を始めます」とのこと。慌てて未使用の会議室にこもり、インタビューを受けました。

結果、1次試験突破。次はグループ面接です。同じグループ5名中、CA未経験者は私だけ・・・太刀打ちできないわ、と思っていたのに、なぜか突破。憧れの「最終面接ファイナリスト」に選ばれたのです!それだけで舞い上がってしまいました。

最終試験は私1人に対して面接官が2名。待合室でお話した受験生は、現役CAさんばかり。なんとなく「さすがに奇跡はもう起きないかな」と感じた通り、残念ながら最終試験敗退です。

だけど、最終試験まで進めたことで、自分の中に「もうこれでいいかな」という満足感のようなものが芽生えていました。

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ヴァージンアトランティック航空を受験

そのすぐ直後。2月か3月くらいに、今度はヴァージンアトランティック航空が客室乗務員を募集しました。

KLMの時の高揚感がまだ残っていた私は、なんとなくノリで応募。だけどね、ヴァージンは実は、20代の頃から何度か応募したことがあって、その5年ほど前にも書類を送ったことがあったのですけど、一度も書類審査すら合格したことがなかったんです。

きっとご縁がないのだな、だからどうせ今回も書類落ちだろうな、履歴書の中身もほとんど5年前と同じだしな・・・と思っていたら。

書類突破の連絡が来たのです!驚きです。なんで?履歴書は前とほぼ同じなのに・・・(苦笑)

本当は4月に面接が行われる予定でしたが、あいにくとアイスランドの火山噴火問題があって、採用クルーが日本に来るめどが立たず、「準備が出来次第連絡をするので、それまで待機してほしい」という通達が来ました。

5月、6月、7月と過ぎ、もうこのまま立ち消えになるのかな?せっかく初めて書類突破したのにもったいないな・・・と思っていた8月のある日。

9月初旬に面接をやります、という連絡がやっと来たのです!

これだけ長い期間があったのですから、準備は万端でした。若い頃、本気でCAを目指していたときに、このくらいきちんと準備をしていたら、もしかしたらあの時合格できていたかもしれない、と思うくらいしっかり準備をしました。逆に言うと、若い頃の自分は試験を甘く見ていて、今思えば全く準備がなってなかった。あれじゃ合格するわけもない、と思います。

待ちに待ったヴァージンアトランティック航空の1次面試験は、筆記試験と身長測定、そして面接官と1:1での個人面接でした。

翌日には結果が出て、なんと合格!KLMの時の勢いがまだ残っていたのかな。ラッキーが続きます。

2次試験は長丁場です。1日で前半がグループ面接&グループワーク、そして後半に個人面接と、トータル3時間ほど拘束されたような覚えが覚えがあります。

結果は翌日中にはメールでお知らせします、とうことだったのですが、一向に結果が届きません。落ちたのかな?とも思っていたら、その翌日に速達で合格通知が届きました!並行してEメールも届きました。どうやら、システム不具合で、メールが送れずに、郵便の方が早く届いてしまったようです。

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結局内定を辞退 CAの道は閉ざされた

その時の喜びは、感動的で今でも鮮明に覚えています。
ようやく私も、思い続けてきた夢を実現させることが出来た!と言う満足感でいっぱいでした。

今まで、あんなになりたくてなりたくて仕方のなかった客室乗務員という仕事に、何度挑戦しても内定をもらうことが出来ず、悔しくてずっと心の中にわだかまりがあって、最後は意地で獲得した合格でした。

だけどね、皮肉なことに、合格してしまったら、一気にCAへの熱が落ち着いてしまったんです。それは、内定者説明会で待遇のお話を聞いてから・・・。

当時のITベンチャー社長秘書の仕事は、職場環境も非常に良かったし、同僚にも恵まれ、しかもお給料もとても良かった。CAの道を選んでしまうと、そのお給料が半分になってしまうことが判明したのです。

しかもヴァージンアトランティック航空はイギリスがベース。翌月にはもう、イギリスに出発しなくてはなりません。32歳で結婚していた私は、横浜にマンションを買って夫と一緒にローンを払っていたので、イギリスと横浜の二重生活になったら、住居費も2倍かかります。

それに、パニック障害の問題もありました。実際、仕事で飛行機に乗るのと、旅行者として乗るのでは、意識の違いもあるので、多分機内で仕事が忙しければパニック発作が起こる暇なんてないから大丈夫、と思っていたのですが、万が一発作が起きてしまったら、周りにも迷惑をかけてしまいます。

いろいろ考えると、雇用契約書にサインをすることが出来ませんでした。

こうして、小学生の頃から憧れ続けてきた客室乗務員の夢は、36歳にしてようやく合格を手にしたものの、自らその夢を断ち切ってしまう形で幕を閉じたのでした。

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まとめ

ヴァージンアトランティック航空の破産法適用申請のニュースを目にして、私の人生の軸のようだった客室乗務員への憧れ、そしてずっとフラれ続けてきた私に、36歳という高齢になってから内定を出してくれ、私を認めてくれたヴァージンアトランティック航空への感謝の思いが胸に蘇ってきました。

受験をやめてしまっていたら、内定を得ることなく、CAになりたくても合格できなかった自分の不甲斐なさをずっともち続けたまま、生きていかなければならなかったと思います。

だから、諦めずにトライして良かった。CA未経験の36歳が採用試験に合格するのって、一般的に言ったらちょっと珍しいことだと思うんです。(今でこそ、LCCなどでは幅広い年齢の方が合格していますが・・・)

だから、諦めずに夢を叶える努力をし続けることって大切なんだ、と自分へのいい教訓になりました。

そして、あんなになりたかった夢だったのに、自ら辞退してしまったことに対しては、人生、その時々のタイミングによって、最優先すべき大切なことが変わってしまうんだな、ということも実感しました。20代の頃に合格していたら、お給料がどんなに下がろうが、家族に反対されようが、絶対に夢を優先していたろうなぁ。

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書いていたら、いつの間にかこんなに長くなってしまいました。おそらく、こんな個人の回顧録、誰も興味ないだろうし、皆さん忙しいから、他人のCA受験記なんて最後まで読んでくださる方もいないと思うけど、一つだけ言えるのは、この記事は、CAを目指しているけどなかなか合格することができない、特に30歳を超えても内定を勝ち取れていない方にはとても参考になると思います。

もしそんな方が読んで下さっているとしたら、合格を勝ち取るまで諦めないで受験し続けて欲しいと思います。今は、コロナで航空業界も厳しいですが、ずっとこんな状況が続くわけではないはず。

コロナが収束し、また人々が世界を行き来するようになれば、航空会社も採用を開始するはずです。その時に準備万端整えておけるように、今のうちから面接対策、コツコツと積み重ねていってみて下さいね。

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