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無意識のうちに生成された価値観

先日、友人との会話で「女子がグループ活動のリーダーになる」ことについて話題になった。理系学部で男子が多いため、女子がリーダーに立候補するのは少し遠慮してしまう。それは、これまでの生活で「無意識のうちに作られた価値観」の一つだと思う。

ヒドゥンカリキュラム

学校や家庭の中で色々な教育を行う際に、教師や親の無意識的な言動により知識、価値観、行動様式が子どもに伝わっていくことを「ヒドゥンカリキュラム」という。日本語で言うと「隠れたカリキュラム」。

【ヒドゥンカリキュラム】
ヒドゥン(hidden)="隠された"
カリキュラム(curriculum)="課程"

目に見えるカリキュラムとは違い、目に見えず暗黙の了解の形で児童生徒に伝達される。

ジェンダー認識

皆さんの通っているor通っていた学校は男女混合名簿ですか?

もともと日本では90年代まで男女別名簿が主流だった。
男性をあいうえお順に読んで、次に女性をあいうえお順に読む。

入学式などの式典でも男女で座る場所が分かれる。

そのように、様々な場面で男女で分ける教育が浸透していた。

確かに、身体測定や着替えなどプライバシーを守らなければならない場面では性別で分けることは必要になる。

しかし、日常的な必要のない場面においても男女を分けることを強調されている。区別が必要ない場面でも「次は男子の○○君」「女子の○○さん」などと何回もジェンダーを確認される。

このジェンダー認識をどこの場面まで必要なのだろうと考えなくてはならない。

つまり、男女別名簿が人々のジェンダー意識を無意識で構築している役割になっている。

このヒドゥンカリキュラムは今でも学校や家庭などの様々な場面で存在している。

私も小中高の名簿を思い出してみた。

小学校と高校は男女混合で、中学校は男女別だった。
小学校は誕生日順、中学高校はあいうえお順。

小学校は名簿は混合だったが、入学式や卒業式などの式典では席が男女で分けられていたし、教室の席も必ず男女ペアだった。また、その男女別の意識は学年があがるにつれて増えていった気がする。
さらに、中学時代は名簿もその他の活動でも性別で分けられていた環境だった。

高校になってからは式典の席も男女混合だったりと、だいぶジェンダー認識は薄まっていた。しかし、進路別の授業では文系理系で男女比に大きな差があったりと小中とは別の場面でのジェンダー意識は大きかった。

自分の経験としても、理系で数Ⅲを履修する女子が私一人だけ(数Ⅲ履修の男子は10人弱、クラス全体は40人位)だったのでとても居心地が悪かった経験がある。

校則

校則はヒドゥンカリキュラムの一つである。

【校則で伝えられるメッセージ】
「男と女は別の振る舞いをするもの」

このようなメッセージが学校校則によって生徒に伝えられている。

例えば制服や髪型。
男女で制服や髪型が別々に定められている。

このようなルールが一つのヒドゥンカリキュラムとなって、「男性と女性は別の存在であり、別の振る舞いが求められる」ということを学校側が教えていることになる。

いじめ

ヒドゥンカリキュラムはジェンダー以外にも様々な場面において存在する。

例えば、教師が他の教員や保護者の悪口を平気で生徒の前で言ったり、教員同士の関係が悪ければ、それが生徒の「いじめ」の助長に繋がることがある。

「いじめは良くない」と生徒に教えるだけではなく、「いじめを容認しない」雰囲気を生徒が体感することが必要だと思う。

そのためにも、まずは教員同士が尊重し合うこと、教師が生徒一人一人を平等に見ることが大切である。

まとめ

ヒドゥンカリキュラムの悪い面を書いたが、実際には良い面も存在する。
例えば、教員が教室の掃除やごみ拾いを行うことで、児童生徒も自主的に掃除をするようになる。教員が間違いを素直に認めて謝罪することで、生徒も素直になるなど。

このようにヒドゥンカリキュラムは生徒の生きる力の育成にも非常に重要な役割を持っている。

「背中を見て育つ」などと言われているように日本は非言語活動によって教育をする文化があると思う。

この文化には良い面も悪い面もあるので、まずはそのヒドゥンカリキュラムは本当に必要なのか、理不尽ではないのか気づくことが重要だろう。

私自身も日常生活での「普通」に敏感になって、自分の価値観を改めてみようと思う。

そして今後、特にジェンダーについての勉強を進めていくつもりだ。


【参考文献】

ヒドゥンカリキュラムについて調べる中で勉強になった動画↓


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