「全力で何もしない」勇気
「何もしないことに全力を傾注する。」
河合隼雄さんの言葉に出会った。
ACIM(奇跡のコース)真の赦しプロセスの一つ、判断無しに微笑んでただ見つめる、ところと一致する。
河合隼雄先生がおっしゃる事を、わたしのマッサージの仕事に照らし合す事が出来る。
マッサージを施術する者として、余計な知識ばかりが溜まり、基本を忘れてしまう時が多々ある。元来勉強嫌いで、記憶力もあまり無いし、「余計な知識」にも限界があるが、あるテクニックを一つ学ぶと、来て下さる方々の体が、何かを施す為のモノにしか見えない時期があった。今でもその誘惑に駆られるが、「ちょっと待てよ」と自分に言い聞かせる時がよくある。
仕事をする上で、第二外国語の国で住んでいて、幸いだと感じる事がある。人の言葉がすべて把握出来ない事だ。20年以上住んでも、まだまだ意味不明の言葉、耳慣れないリズムが沢山ある。
家族関連や社会情勢などの雑談になると、わたしの利点は、「聞き手」に回るしかない事。「ああ、そうなんですか」「ああ、それは大変でしたね」と分かった振りをするしかないのだ。真剣に曖昧に振る舞う事も、社交技術として大事な位置を占めると感じる。
そうすると、不思議な事が起きる事に気が付いた。人が落ち着き出すのだ。
一通り話し終えた後に、ご本人が「はぁ」と大きなため息でもつくようにして、安心されているような、ご自分で納得されているような感じに受け取れる時がある。それでも、次にお会いした時にまた同じ話をされる事も多々。わたしも初めて聞くように返答するので、繰り返しご自身で納得されておられるのだろう。
わたしのマッサージ施術を受けられる方々が、「ここが痛い、あそこが痛い」と言うと、施術師のとして、「背骨が曲がってるからでしょうね」「関節がすり減っているのでは」「体が硬いからですよ」「数年前に事故の後遺症でしょうね」等、無責任に適当な知識をひけらかす事を、ある時控えるようにした。
Mind IS Sick(マインドが病気)
以前、ACIM(奇跡のコース)のGary Renardさんと個人的にお話する機会があった。コースを始めてまだ浅い時期で、こんな質問をした。
「コースは肉体は実在はしないというが、車椅子生活をする夫のように、毎朝の支度に2時間かかり、本人の苦労を目の当たりにして共に暮らす毎日。わたしはどうアプローチしたらいいのでしょう。」
Garyの回答はシンプルだった。「他人を肉体として認識しているということは、あなたが自分をまだ肉体だと信じている証拠。肉体イメージを貫いて、彼の本来の正体を視なければならないね。」
なるほど、と痛感。
わたしが顧客を故障した体と捉えれば、わたしが自分を故障の起きる肉体と認めているのと同じ。車椅子を利用する障害のある夫と思えば、わたしが自分で障害を持てる体だと信じ疑わない、心に病を持っているに過ぎない。
個人の心の病は、社会全体の心の病だと、河合隼雄先生はおっしゃる。「個人がわざわざ社会を代表して表現してくれているんだ」という表現に、「ああ、なるほど、だから個人は全体だというんだ」と腑に落ちた。
「わたし」は治さない
わたしが近年行うイメージ練習がある。目前にある肉体イメージを、光の中に溶けさせる事。見たことの無い光を想像するのはわたしには難しいので、ネット上でアーティストが作った光のイメージ画像を利用し、自分なりに拡張想像する。その光へ、肉体イメージ画像をバターの様に溶かす。又は、風船がパチンと破裂する様に光へ放つ。そして、自分も一緒に放つ。
忘れてはならないのは、わたしが人の体を癒しているわけではない。癒そうという動機では行わない。癒すのは、人の肉体を治さねばと思い込む、おかしな頭と心のわたし。
覚えてさえいれば、これならわたしでも出来る。後は、自分が出来る範囲で施しながら、それ以上「何もしない位置」に立つしかない。
そうすれば、適切なマッサージ施術が「起きうる」と実感。「適切なことが起きる」には、この「何かしなくては」という円から出るしかない。さて、どの様に出るか?
わたしは、Holy Spirit/愛/慈悲の源に「わたしを道具として使って下さいな。方法を知りません。」とお願いする。
それすらも、忘れる事が多々ある。だから、「こんな忘れっぽいわたしに何もしない事を選ぶ勇気と力を下さい。」と毎朝心の中で言う。
「全力で何もしない」を選ぶ勇気にもっと意識を向けてみようか、と思うこの頃。