頭の中の垂れ流し・整理整頓


”生きる藝術”という言葉がある。

それは誰もがアーティスト・芸術家である意と同義的な話も聞くけれど、自分の中での解釈は少し異なる。

陸上の100m走でいうならば、前者の解釈だと

ウサイン・ボルトは”生きる藝術”である との表現になると思う。

ただ、自分の解釈でいうならば

ウサイン・ボルトの走りは”生きる藝術”である との表現になる

茶の湯を大成した千利休でいえば

千利休が生きる藝術なのではなく、千利休の所作が生きる藝術になっていったからこそ大成されたという表現になる。



”価値ある原風景を残していくため、4次元の美しさを併せ持つ人間となる”

というのは、自分の中で明確になりつつあるひとつの軸を示すための言葉で、これから変化していくかもしれないけど、きっと大きくは変わらない。


原風景は”静”ではなく”動”である

ただその”動”は”静”を併せ持つ

”静”の要素を併せ持った”動”は経験という時間軸を密に重ねてきた人間によって表現される

それは単に効率的・合理的な動きではない

美しさを追求した動きでもない

技術を認識した人間が技能を高めることに加え、芸能としての表現を意識することによって藝術の要素を持つようになる

技術と技能、さらに芸能が加わった人間の所作は常人では成し得ない

それは無意識に人体の合理性と美しさを併せ持ち、琴線に触れるものとなる

そうしたの存在の集まりが原風景をつくりあげる

自然を支配してきた西洋、自然と共生してきた東洋

原風景の美しさは東洋の文化と切り離すことはできない

テクノロジーが人類を超越するのであれば

テクノロジーが参考にしたくなる人類を作り上げれば良い

映画・絵画・建築が人に涙を与えるように

”静”と”動”を同時に表現できる1人を目指す



価値観の多様化、時代の変化でものの消費が減るのであれば

人類が変化する藝術になれば良い

その変化し続ける藝術になるため、自分がストックのコンテンツになればいいではないか

自分がそうした藝術的要素を持ち始め、原風景の一部として質を高められた時、きっと先生は喜んでくれるだろう。

今年喜寿を迎えるので、傘寿までには、なんとか、

より価値ある人間になります。


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