藍染めと正しさ、ほんもの、にせもの


藍染めには”ほんもの”と”にせもの”があると思っていた。うちの工房の藍染めが”正しい””ほんもの”だと思っていた。1年目は。

でも、今はそうじゃない。そんな議論があることが悲しいと思う。

上の人の下について勉強していた1年目が終わり、その人がいなくなって藍の管理を任されるようになった2年目。一気に自分の責任が増えて、でも裁量も自由度も増えて、藍の魅力を知って欲しいと思っていた。3年目は”うちの藍は”という言い方をするようになった。多様さを知った。小石丸の養蚕も自らやるようになったことで、トータルでの見方をできるようにもなったかもしれない。

4年目は、「なぜこの人の藍染めは共感者が多いのだろう」というものについて、やっと結論が出た年だった。でも同時に、「何が正しい藍染めなのか」「正しさとはなんなのか」「正しいとの主張は正義なのか」「その正しさでなければダメなのか」藍染めの業界とも真剣に向き合った時間だった。

この年の11月、福岡の久留米絣の工房を訪ねた。反物や、それをベースにした洋服やもんぺも作っている。藍小屋を案内してもらった時、

「うちは苛性ソーダ使ってて。すいません」

と謝られた。疑問符が湧き出てきた。

なぜ謝る?なぜ謝られる??

久留米絣は愛好者も多い中で、動力織機を使って、苛性ソーダだけど蒅で建てて、お客さんたちを支え、喜ばせている。海外展開に向けても取り組まれている。自分からすれば産業としての歯車を担っていてむしろ敬意を持つ対象だった。そこで回していくためには、折り合いをつけるためには割建てが合理的なのも理解できる。何より久留米絣は松枝さんや山村さんのような、灰汁建ての無形文化財に指定される人たちがしっかりと根付いている。

なのに何故? と。

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藍染めは、なんかそこらへんがデリケートだ。

原料に、蒅(すくも)や沈殿藍を使うのか、インディゴピュアを使うのか。建てる(仕込む)ための液として、灰汁を使うのか、苛性ソーダを使うのか。微生物の発酵を利用して還元された状態を作るのか、ハイドロ猿ファイトで還元するのか。貝灰・石灰を使うのか。麩・水飴・ブドウ糖。何を使うのか。日本酒を使うのか。そういうの入れないのか。

状態を作って発酵”させる”のか。発酵”するまで待つ”のか。そもそも発酵を殺して”酸化と還元”で認識するのか。秀吉か家康か信長か。

毎回絞って水洗い(水中酸化)させるのか、適度な回数染めてから洗うのか。

判断基準に何をもうけるのか。藍の華(表面の泡)を作るのかどうか。

毎日交ぜるのか、交ぜないのか。


・・・めんどくさい。

大事なの、そこじゃなくね?????

なんでそれやり続けるか。

自分がどの立ち位置でどんな価値観を届けていくのか、だと思うんだけど。

***

藍染めの業界は小さく、クローズドになりすぎたゆえに、寛容さを失っているように思える。藍染めは特別じゃない。


価値というのは相対的なものだ。インディゴ染料が普及したことでデニムがファッションとして流布し、身近なものになった。だからこそ天然藍の価値が相対的に上がる。

原料は天然の藍を使っても、苛性ソーダを使うから、多くの人に行き届く。そのお陰で、薬品を一切使わない藍はその価値を高めることができている。

産業としてかろうじて残っているから、個人として小さくやったり、毎回水洗いしたりと丁寧な仕事が受け入れられる。

農業だって、一般的な慣行農法があるから有機農法が注目される。有機農法だけでは世界の食糧供給はまかなえない。

うちが小石丸の養蚕を続けられるのも、産地の人たちが一生懸命毎年交雑種の繭を量産してくれるから。

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価値というのは相対的なものだ。誰かのお陰で自分の仕事は存在している。

ちょっぴり寂しいのは、産業が小さくなりすぎて、受け取る側の判断基準が少ないこと。もちろんこれは自分も入るまで全く知らなかった。

だからこそ、うちはうちの藍染めを形にしていこうと。自分の価値観を伝えていこうと。

何が正しいか、じゃなくて、「何が大切か」。貫いたものが当人にとっての「ほんもの」であればいい。押し付けでなく。

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僕の工房は基本的に毎日交ぜる。毎日面倒を見に行く。

「毎日交ぜるの大変ですね」「休みがないですね」「藍は生き物だから仕方ないですね」・・・。と。

業務で考えると確かにそうかもしれない。でも

・綺麗な膜が張った時の金箔のような美しさ

・その膜に触れた時の感触

・藍の華が固まった美しさ、集まる面白さ

・泡の様子、液の様子が変化する楽しさ

・考える要素が増えることで発見が増える面白さ

・毎日交ぜることで、僕の呼吸が整うこと

・一連の作業に対して自分の中での業務がルーティーンになり、所作に近付いていく面白さ

・思い通りに発色した時の美しさ

・自分のものにし、引き継いでいく価値の構築

日々向き合うことで業務の域を超える。面白さは確実に増していく。

(この膜を金箔に見立てた作品を作りたい。)

(宮崎県の美術展で特選をとった藍のテーブルセンター(織り)と花器。器は藍を交ぜる棒につける道具を船に見立て、藍の葉たちを帆に見立てた。)

毎日向き合うからこそ気づくことがたくさんある。気づけば気づくほどにそれへの価値が、畏敬の念が大きくなる。

自然はコントロールできない。

だからこそ仲良くなるための方法を模索する。

藍も養蚕も、アートになる。そう思ってる。

楽しく価値を伝えていこう。




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