父がいないという日常

私はここ1-2ヶ月本当に仕事が忙しくて、
休みが全然なくて、ことあるごとに休みたい休みたいと言っていて、
ようやく今週末に1ヶ月ぶりの休みが取れるので
それをすごく楽しみにして頑張っていた。

父が亡くなったことにより、
この1週間いきなり休日になり、
そういうことじゃないんだよな、、とずっと思っている。

父が亡くなったのが月曜日。葬儀が木曜日。
それまではなんだかよくわからない時間が過ぎていって、
この金曜日、土曜日と、多分疲れも出たのか
いつもの怠惰が出たのか、何もせずに終わってしまった。

明日からまた、いつも通りの日常が始まる。
私や、私の家族にとっては喪失を抱えたままだが、
世の中はあまりに普通に動いているし、
親族の死なんてどこにでもあることだから
側から見ればそれは、よくあることで、それも頭ではよく理解している。

だからこそ、
普段の日常の波に飲まれて忘れてしまう前に、
まだ記憶が鮮明なうちに、
覚えていることをここに書き残しておきたい。
(雑多な備忘録として、書いてる途中で飽きちゃうので、
 断片的にでも記したい)

ちょうど1週間前の今日、日曜日。
父は病院に緊急入院した。

土曜日の夜にお腹が痛いといいだし、
母が朝イチで病院に連れていった。

入院自体は今年すでに2回ほどあり、
その度に1週間入院しては退院してくるを繰り返していたので
今回もそんな感じなんだろうなと思っていた。母も、そう思っていた。

仕事が佳境な私は、月曜日の朝も7:00頃に家を出て
9:30頃には会社に着いていた。
母からの電話が鳴ったのは10:30。

母の番号は登録していたはずなのに、番号表示されなかった。
普段プライベート携帯にかかってきた見知らぬ電話は出ない私が、
妙に見覚えがある気がして電話に出た。

「今病院から連絡がきて、お父さんの容体は一両日中だと。
 会社抜けてこられない?」

正直、意味がわからなかった。
いつも通りの入院だと思っていたから。

仕事を丸投げにはできない。したくない。
でも、今日だったらなんとか抜け出せる。

そこからプロデューサーが来るまでの30分が
とにかく長く感じた。
なんて言えばいいのだろう。
今、なにをしないといけないのだろう。
っていうか、どういうこと。

決してパニックにはなっていないけど
よくわからなくて、部屋中をぐるぐるしていた。

会社を抜けて病院に行くときも、
なるべくゆっくり行った気がする。

多分、今夜が、山場なんだろう。
でも、緊急入院なんてよくあったし、
それでまた持ち堪えて、また元に戻るんだろう。

なるべく早く病室に行った方がいい。
でも、
行きたくない。

本当は聞きたくないはずなのに、
人が亡くなった時に作られた歌なんかを聞きながら
電車に乗っていた。
今思うと、あれはどうしてだったんだろう。

病院につくと、先に着いていた兄から状況を聞いた。
いつ爆発するかわからなかった癌がついに破裂し、
輸血しても血が流れ続けてしまうのだ、と。

もはや輸血しても意味がない状態なので
残り1パック(400ml?)が終わったら、輸血を終えると。

それはつまり、輸血という延命を終え、
ゆるやかに死を迎える工程に入ることを意味していた。

そうか、本当に父は、夕方に輸血を終え、
あとは本人の体力次第でどこまで持つかわからないけど
きっと今晩中には居なくなってしまうんだな、と
よくわからぬまま、なんとなく、認識した瞬間だった気がする。

それは、覚悟したわけではなく、
あくまで、認識しただけだったけれど。

そこからは、目に焼き付けたはずなのに、
今はよく思い出せない。

病室に入ると、身体中にチューブをつけた父が横たわっていて、
苦しそうだったのかな?
それもよく思い出せない。

でも、母が、痛い?と聞くと首を横に振るし、
トイレに行きたいとチューブを無理にはがそうとするし、
まだ最後の意思を伴った父がそこにはいて、
風前の灯火の命が、まだ生を生きていた。

ちょっと眠そうな父に、疲れたなら寝てていいよ、と母が声をかけ
私と兄は軽い食事に出た。
だって、輸血はまだ1パック残っていたから。
おそらく夜中のことだと思っていたから。

すぐに病院にかけつけられる体制をとるには
どうしたらいいのか兄と相談していたぐらいだから。

14:30頃に病院に戻ったら、
父の病室は変わっていて、
さっきまではまだかろうじて生気を宿していた父が、
もう昏睡状態だったのだろう。
舌が横に垂れ、涎も流れ、呼吸も浅くなっていた。

見るからに悪そうだな、とは思っても、
それでもまだ実感はなかった。
だって、その時が来るのは夜だと思っていたから。

けれど病室に戻ってわずか15分。

どんどんと心電図の数値は下がり、アラームが鳴り、
これはやばくない!?と思い医者を呼び、
その間に看護師が、接触で数値は前後するんですよね、
と言いながら機械を触って、
私は父の足を摩っていて、そのわずかちょっとしたら、
心電図がピーっと0になり、息を呑んだ。

文字通り、私は、息を呑んだ。

まだ身体は暖かかったし、
その時母はいなかったし、
あまりにも急で、
たった今、亡くなったというのが、全くよく分からなくて。

もしかしたら本人は最期の時、ちょっと苦しかったのかもしれない。
でも、
側で見ている限りでは、本当に眠るように逝った。

そこからは、常に死に接し慣れている病院の、
流れ作業のように進む作業にただただ従うしかなく。

でも、私は病院の先生にも、看護師さんたちにも
素直に敬意を表したい。
確かに、淡々と、ある意味
心がこもっていないように感じるかもしれないが、
毎日毎日、死の現場と向き合い、心すり減ることも多いと思う。
毎日、毎日。
本当に大変な仕事だと思う。(だからもっと給料をもらっていいと思う)

父の身体を拭いてくれるというので、ちょっと外し、
戻ったら、腕はもう冷たかった。足は、まだ温かった。
でも口は開いたままで、
母がどんなに閉じようとしても、塞がることはなかった。

父の体は、ただの容れ物になってしまった瞬間だと思う。

ほんの1時間前までは、意思表示をしていたけれど
もう容れ物になって、
近くにいるかもしれないけど、遠くに行ってしまったんだろうな、と。

慰安室から、霊柩車に乗せられるまでの地下通路を、
私はずっと忘れないと思う。

白い布をかけられ、ストレッチャーに乗せられた父の後ろを歩いた。

長らく父と旅行に行くこともなく、ご飯に出かけることもなく、
一緒に歩きたくないと思っていた。

親不孝娘で、結果的に結婚できなかったけど、
もし結婚式をしても、小汚くなってしまった父とバージンロードは歩きたくないと思っていた。

でも、容れ物になってしまった父と並んで歩いたよ。
バージンロード、歩かせてあげられなくてごめん。

健作さんに、本当に聞きたいことがある。

幸せでしたか?

病室で、母や兄の声は聞こえましたか?

最期の瞬間、何を思いましたか?










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