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信仰に従ったら、対話にならない

前職の同僚と話をしていると、主語が「新◯さんが」「あやとさんが」「吉◯さんが」と、彼女の意見が出てこない。まるで他人の意見を盾に、自分の意見を正当化しつつ会話しているかのようであった。
ここにいない、どうでも良い誰かの意見を延々と話しを聞いているのもしんどい。だから、「貴女はどうしたいの?」と聞くも、また、「新◯さんが」と入る。
「最近、周囲の人が意地悪をしたり、去っていく。原因は、皆、私に嫉妬しているから。」と話す彼女は、きっと自分が見えていないのだろう。彼女自身は謙虚な女性として振る舞っているかもしれないが、実際は、無責任な重い人として見られている。結果、周囲は、疲弊し離れてしまう。
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夫との会話は、「母親が」で始まる。夫婦間の問題は夫婦で話し合いたい。義母の意見も思いも、私にとっては部外者の意見で雑念となり、迷惑でしかない。対話は、お互いに目の前の人と話して、目の前の人の思いを聞いて、理解し、受け入れ合うことにあるだろう。だが、夫は、義母と話し合ってから、私に提案をする。私が知りたいのは夫の意見なのに、彼の意思はない。それに腹を立てた私に対し、「妻が怒った」とまた義母に相談する。
もう義母は勘弁して欲しい。喧嘩の内容よりも、対話ができない現状に脱力する。
夫は、まるでママを信仰しているようだと思った。40代男性が、理解力のない70代のママを信仰するとは、もはやホラーでしかない。
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自分の意見を話すのは、不安でもあろう。それは分かる。言ったところで理解してもらえないかもしれないし、非難されるかも知れない。本音を罵倒されたり、批判されたら悲しいし、傷つく。
しかし、思いを隠していては通じ合えないし、意思のない人から人は遠ざかる。なぜなら、一緒にいても重いだけで、面白くもないから。
結果、対話がない関係となり、人間関係が出来ない。

礼儀正しく、当初は人に好かれていた元同僚は、傷つく恐怖心から、自分の意見に責任を持たずに、マジでどうでも良い「新◯さん」「吉◯さん」を信仰し、結局、周りから人が去った。せっかく好かれていたのに、ただただ勿体ない。
自立出来ないマザコン夫は、「用件は僕の母親に話すように」と言って、ママの元に帰って行った。結婚式のとき、夫には友がいないと感じた理由が分かった。人と通じ合う能力がなかったのだ。
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誰かを信仰することは悪くないだろう。占いや自己啓発本、家族や友人の意見に染まることは誰でも有り得るのだから。
しかし、対話において、目の前の人とではなく信仰しているものの意見を主張すれば、非難を免れることは出来ても、相手と通じることはできない。

「私はあなたと話したい。他の人の意見は要らない。」その言葉すら通じなかった元同僚や夫と過ごした時を思い返す。波長が合い、惹かれ合った何かが合ったから交流を持ったのだろう。にもかかわらず、対話が成立しなくなったために、共に楽しみたかった時が泡のように消えた。交流したあの期間は、今となってはただ虚しい時間にも思える。
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風邪をこじらせ寝込んでしまい、暫く拝読も執筆もお休みしていました。お気遣い下さった皆様、ありがとうございます✨
また明日から皆様のところにお伺いさせて下さい!

とても嬉しいので、嬉しいことに使わせて下さい(^^)