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致死量の悔恨 第4話 息ができない

さざ波を眺めていると、心の中が良いことだけで満たされ、元気ハツラツとしていた自分が過去の者の様に感じる。職場から離れて僅か四ヶ月しか経っていないのに、感じよく働いていた自分は遠い離島に行ったようであった。お腹にいる子供を撫でながら、モヤモヤとした思いを吐き出せない環境を夏海(なつみ)悔しく思った。

「夏海さん、おはようございます。」

いつもの取り巻き達と話すおしゃべりの内容は、苦手な部長の話しであった。

「ねぇねぇ、あの咳払い、直らないの?」

一子が言うと、二子が、

「私たちがお喋りしていることへの当てつけよね。」

と小馬鹿にして笑う。反論しなさそうな人としてターゲットとなった部長の癖や仕草を話すのが、いつの間にか3人の挨拶代わりとなっていた。悪口で繋がった3人の関係は、お互いを被害者と位置づけ、夏海達が他人の上に立つ絆となる。そして、この3人でいれば、自分は周りから悪口を言われない安全圏に入ることができるのだから、一石二鳥であった。

その中で夏海はいつもスターであった。1番可愛くて、お洒落で、賢いから誰も反論出来ないため、人気者だった。それに比べて太り始めて雑な化粧と安物の衣類に身を包む取り巻きは、名もなき頭数でしかなかった。

「本当ね。私たちの仲の良さへの僻みかしら。」

夏海は日頃の鬱憤を、反論できなさそうな優しそうな人に向け、自分の心を綺麗にした。今日は、通勤中に他人の傘が足に当たり、苛ついていたから、それを解放したかったのだった。こうして八つ当たりすることで、ストレスを溜め込むことがないから、結果として良い人と呼ばれ、人気を博することは、生まれついて持ち合わせていた才能だった。だから、友達づくりに苦労したことはないし、いつも夏海の周りには人が取り巻いていた。結婚式に50人の同僚と友達を集めることも難はなかった。

しかし、この人気は、学校や職場などの生活環境に、夏海の不満の捌け口となってくれる気弱そうな誰かが必ず居たからで、夏海自身が自分の能力を発揮し、満たされた魅力的な女性であったためではなかった。

そのことを、夏海自身が1番よくわかっていた。

「夏海さん、髪型変えました?いつも綺麗ですね。」

近づいてきた三子に、

「ありがとう。三子さんこそ、いつも素敵なスカートね。」

と笑顔で返す。山女みたいな格好と心の中で思っても、顔には微塵も出さない。ただ、颯爽と会話を続ける。共通の敵を見つけた小さなグループで大将となり、結果、周囲からも一目置かれる綺麗な女性のポディションにも飽きてきた。なんせ、悪口以外、やることがないのだ。だからそのタイミングで、夏海は、倫太郎(りんたろう)と結婚したのだった。

倫太郎と結婚してからは、夏海の悪口に一層の拍車が掛かった。作った料理への反応を示さない夫の小言や、思いやりのない言葉が癪に障ったのだった。だから、ターゲットを増やした。

部長、春子、秋夫、冬美の悪口を捲し立てる様に話した。

通りすがりの四子に、

「今日の春子さんのワイシャツみた?リボン付けて、まるで学生服かしら。あの、内股もどうしたものかと思うわ。」

と耳打ちする。四子は、

「本当ね。腹立つから、春子の椅子を隠してみましょうか?」

と、さも可笑しそうに返した。夏海は、

「四子さんは、さすがね!春子さんのキョドる様子を楽しみにしているわ。」

と伝え、その場を去った。そして、あースッキリした。と思った。

ただ、このような暮らしも続かなかった。夏海は、重い悪阻で、退職を余儀なくされたのだった。

退職をしてから、夏海の心は悪循環の一途を辿る。重い悪阻のストレスの受け手となる優しい人が誰もいなかったのだ。これまでは、学校や職場に行けば「いじめられて良い人」が必ずいて、夏海の捌け口になっていた。しかし、家には夫の倫太郎しかいない。倫太郎に不満をぶつけないから、良い子として認められ、結婚することができた。その関係を崩すことは、夏海の居場所がなるなることで、それは出来なかった。

病院に向かうタクシーの車窓から海岸線を眺めながら、心に溜まったモヤモヤをこの海に投げたいと思った。バーベキューで浮き立つ若者が、まるで太陽の様にも見えた。

夏海は、タクシーから降りて、少し遠くからバーベキューの彼らを眺めることにした。

彼らは、昼間から花火をしたり、アルコール飲料の缶を海目掛けて投げたりしていた。

「楽しそう。」

と思いながら、夏海は物思いに耽っていた。そして、気が付いた時には、ゴミだけを残し、彼らはいなくなっていた。その跡を、夏海は歩く。

花火の袋、肉や野菜のパック、残された残骸を夏海は次々、海に投げる。

「馬鹿野郎!」

「味噌汁の味濃いってうっせーよ。お前が料理しろよ!」

思いを口にしながらその辺のゴミを海にどんどん投げ込んだ。

「太ったね。って妊婦に言うかふつー。」

蹴り上げた缶がボチャーんといった。快感だった。

叫び終わった後、スッキリした夏海は、大きく伸びをして帰路についた。

その日から、ゴミを持って海に行くことが夏海の日課となった。

「倫太郎の大事にしていた、ヘッドフォン、さようなら!」

と大声でさけんで投げた。ストローの袋も、トレーもペットボトルも、2人で集めたビー玉も、日々少しずつ海に投げていった。

海は何も反論しないところが部長に似てると思いながら、夏海は、無口な自然に鬱憤を吐き出し続けた。それは、出産まで続いた。

夏海の陣痛は、予定日よりも2日早く来た。

のたうち回る程の痛みで、もう声も出ない。涙と鼻水が止まらず、歯ぎしりをし続けた。

倫太郎や看護師、お母さん等の親族ご代る代る夏海の手を握った。力むこと、15時間、

「赤ちゃん、出てきました。」

との看護師の声はしたが、泣き声は聞こえない。

「口からビニールが!」

背中を叩きながら赤ちゃんの口から出てきたビニールを引っ張る看護師が、

「高野先生を呼んで早く!」

と叫んだ。その間にも、他の医者がビニールを取り除こうとする。その様子を遠目で伺う夏海が、

「赤ちゃん、赤ちゃん」

と、嗚咽混じりの泣き声を上げる。

「ビニール取れました。」

という医者の声と共に聞こえた赤ちゃんの泣き声で、夏海は泣き止み、安堵した。しかし、オペ室の雰囲気は緊張感がなくならない。何があったのか、夏海は、状況を飲み込めない。それからしばらく経って、ゆっくりとオペ室に入って来たのは、90歳くらいのおじいさんだった。看護師が白いタオルに包んだ赤ちゃんをそのおじいさんに見せる。

「高野先生、この子。」

とだけ言った。

「あー、生まれてしまった。」

高野先生は、赤子を見て、そう言ってから、首を横に振った。それから、もう一度、

「生まれてしまった。」

と言って、赤子を夏海に見せた。

赤子の唇は、真っ青で、
耳は真白。
肌の色は白味がかり、
両目と鼻がなかった。

何より、赤子が放つオーラと言うか雰囲気が、まるでハエが集っているかの如く独特なものだった。それは恰も人が悪口を言っている時の雰囲気を醸し出すものだったのだ。

夏海は、息を呑んで口に手を当てた。

「そんな、何故?」

赤ちゃんを直視できなかった。高野先生は、

「お母さん、あなたの心がこの子を産んでしまった。」

と、強い口調で伝えた。

「あー、あー、どうしたら?」

夏海は言葉にならない。 高野先生は、

「人も自然も、何も言わないからといって、あなたに何の憎しみも持たないわけではない。」

と赤子の頭を撫でながら言った。夏海は、

「治して。」

と言うのが、やっとだった。高野先生は、首を横に振った。

「治すのは、あなたの心です。」

そう告げて、高野先生はオペ室を後にした。

(致死量の悔恨 第4話 息もできない夏 了)

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