河合隼雄『で』語り合おう②✧♡
前の記事で、中学校の美術教師として、勤め始めの自分の心境を思い出した。
最近の私は、ここ数年、退職する前からNHKの連ドラを録画してみるのを楽しみにしている。
そして、確信した。
若くて何もわからなくても、一生懸命生きる前向きな女の子には、視聴者もだが、神様だって味方する!
それを、あの勤め始めの私に教えてやりたい。
いつも早く職場を脱出したいと考えていた私に、お前、何もできないなら、もっと謙虚になれ!と頭を叩きたい気持ちになる。
時代劇で、丁稚奉公という制度を知った。
主人公は、前向きで、働くと言うことの厳しさと、無私の美しさを見せてくれる。親元で甘えた怠惰な態度などゼロだ。この体験は後々、主人公を大きな器にしていくにちがいない。
宮大工の本も読んだ。
徒弟制度で、全く役に立たない新米は、皆の料理担当になる。それはそうだ。宮大工として全く役に立たない時から、お給料を頂く。
そのお金は、先輩の宮大工の収入から分けて頂いたもの。
ご飯の支度ぐらいできなくてどうする?という世界だ。
そんなひよっこが作るご飯が、初めは美味い訳もないが、先輩方も自分の通った道と、不味い飯をごくりと呑み込むに違いない。
私は教師になり、公務員として、22歳の4月から、お給料をもらっていたが、そのお金の意味をわかっていただろうか?
宮大工と違って、教師は、採用された時から一人前として扱われる。
へたすると、惰性で授業をするベテラン教師より、情熱を持った若い教師が、いい結果を生徒にもたらすこともある。
しかし、自分はどうだろう。
卒業制作に挫折して、憂鬱な気持ちで仕事に就いた。
しかも、大学生まで、弘前市で、大好きな母と共に暮らしていた自宅生。
一人前になるためには、家を出て自立しなくてはならないこと、頭ではわかっている。
でも、ずっと、大好きな母と暮らしていてはダメなのか。
青森県弘前市は、津軽と呼ばれる土地。
私の教師としての第一歩は青森県八戸市、一度も訪れたことのない、南部と呼ばれる土地だ。津軽藩と南部藩、大きく2つに分かれる。
初めて親元を離れて、1人暮らしと社会人の生活が始まった。
そんな私に、NHKの連ドラの主人公の前向きさも、明るさも無い。
勤めた初めての中学校で、22歳から退職の60歳まで、38年間も働くのか、と気が遠くなっていた。絶望的に長い。
そんな自分の精神を安定させるのに精一杯の私に、子供たちはどんな反応をするか。私は子供に好かれていたが、それはただ単に若いからだ。高校生が学校に遊びに来ているみたいと言われていた。
自分らしくありたいから服装は自由。
毎日服を変えて、好きな格好で学校に行く。
後で思うと、全く、作戦を間違えていた。
生徒と見紛うばかりに若い私は、わざと、紺色のスーツなどを着て、生徒と距離感を出さなければならなかった。それを全く分からず、その逆をやったわけだから、生徒に、めっちゃ舐められるはめになる。
私は1年目から教科は教えていたが、教務付といって、教務の書類を綴じるだけの係だったし、2年目は、1学年に所属した副担任だった。
学年主任に、ある日、呼び出されて、
「服装が自由過ぎる」
と注意された。至極、まっとうな注意だ。
でも、私が本当に聴きたいのは、
「教師は、生徒と友達になってはいけない。
あなたは、若いから生徒たちが慕ってくるだろうが、彼らを指導するためには、私はあなた方の友達ではない、教師なのだという一線を引かなければならない。
しかも、あなたは彼らと年が近いのだから、友達と思われないように、教師らしいスーツを着て、自分を守りなさい」
という本質的な忠告だった。
ただ、服装を注意されても、何が悪いのかピンと来ない。
母は、すでに退職していたが、もともと、小学校教師だ。母にその話をすると、普通なら、学年主任の肩を持つところだが、全く別なことを言った。
さすがちゃかし(←津軽弁でお調子者)の母だ。
この母の言葉は当時の私を元気づけたが、その後、私は、学級崩壊を招くまで、自分が教師として何がダメかわからなかった。
母はいつでも私の絶対的な味方であるという安心感をくれた。
その後、担任することになったが、マジメに訴えているのに、全く生徒には響かない。私に反抗するのは主に男子だが、そのうちに、味方であると思っていた女生徒も、男子側に付くのが、ショックだった。
まさに、河合隼雄氏の「マジメも休み休み言え」状態だったのだろう。
生徒の気持ちがわかっていなかったと言える。
この時代、色んな人から色んなことを言われた。
私がよく通っていた喫茶店のマスター。
この言葉は凄い。その通りだ。
先生の言うことをまずまず素直に聴いて勉強する私に似た生徒のことはよくわかる。しかし、その逆の、宿題をやってこなくても何とも思わない生徒のことは理解できない。
偶然飲み屋で一度出会っただけの人。
ずいぶん、初対面で失礼なことを言う人だ。母に愛されて育って何が悪い!?と私は思った。しかも、私には、教師として何の魅力もないと言っている。話の前後を忘れたが、心に残ったのは、どこか、自分でも気になる言葉だったのだ。
親しい飲み友達が、ある日次のように言った。
この言葉を聞いて、私も教師でいてもいいんだと肯定されたが、今、考えてみると、全くホメ言葉でもなんでもない。
そんな私が願っていたこと。
私という未熟な人間を嫌いでもいいから、美術という教科を好きになって欲しいと思っていた。
でも、それは無理な話だ。
私が、さらに教師として困り、本屋を彷徨っている時に手にした本が、河合隼雄さんの「こころの処方箋」だ。
ちょうど、生徒の心がわからずに、へとへとだった。
「こころにも処方箋があるの?」
本の文字が、悩んでいた自分の目に飛び込んでくる。
私は、生徒に心から語りかけていなかった。
私に欠けていたのは、教師としての哲学だ。生徒をこんなふうに育てたいという哲学がない。これは許してはいけないという一線が曖昧なのだ。
自分があまり怒られてこなかったせいか、怒る、ということが苦手だった。なぜ、それはいけないことなのか、情熱を持って語ることを持っていない。教育への哲学と、生徒への愛が、足りない。
口先だけの注意は上滑っていき、生徒に届かないのだ。
このようにへぼい教師の私が、この本にどのように助けられていったのか、次は詳しく追ってみようと思う💖