ネタを編む✧♡
舟を編むを観ていたら、馬締さんみたいに、気になった言葉をメモするようになった。小さなメモ帳に殴り書きwww
これは365日連続投稿を目指す自分を詠んだもの。川柳を詠むときは百済無観音に変身するあやのんである。
高血圧川柳に応募した句。
賞金を狙って、今まで50個くらい応募してみたが、かすりもしない( ´艸`)お金を狙う動機が不純だからかしら?
けっこうクスっとくると思うんだけど。
ブギウギで淡谷のりこを演じた菊池凛子と違って、淡谷のり子は目が細かった。つけまつげとアイラインで、かなり強調している。
うまい!座布団一枚!みたいなセリフ。
テレビで前出の言葉が出た時、そうつぶやいた。
黒帯は肩までの白髪交じりのソバージュヘア。そんなヘアスタイルの年配の男の人はいないので、知らないおばさんから、じいいい・・・と見つめられることが多い。「この人、何者?」みたいな目つき。
猫は喜んでじゃれついていた( ´艸`)
たらこが美味しいと言えばいいだけなのだが( ´艸`)
直観的にこの言葉は正しいと感じる。
元教師だけに、今の子供って大甘だなと思っていたけど、自分はうっかりうまくやって退職まで現代社会で働いたけど、そう言われてみると、はた、と考えさせられる。登校拒否は、普通の反応だったのかも、と。
私も「生きる可笑しみ」は、好き。
ドラマの中に出てくる民の中で芝居する人々(猿楽?)が、偉い人々を滑稽に演じていて、この台詞が出てきた。昔からそうやって何かを笑い飛ばして憂さを晴らすというのは、庶民がやってきたことなのだ。
amasarashiの歌詞にはドキッとする。神様の知らないことなんて、あるはずもないのだけれども、なんだかありそうな気がしてくる。君と僕だけが知っていて神様も知らないことが。
じさまだけでも、老いを感じるのに、それを強調するかのような、ひとり、とか、さらにとしょり、とか、これでもかと、寂寥感の増す言葉だ。「んが、でんで」とかもう、意味不明。「お前、誰だ?」という意味。南部弁の不思議さも津軽弁に負けてはいない。
山田洋次のドキュメンタリーを観た。年老いてなお、車椅子に座ってメガホンを取り、吉永小百合にダメだしをする姿は鬼気迫っていた。吉永小百合の「私は魂のない人形」という言葉も心に残ったが、寅さんシリーズでありのままの姿で出演してみて、「自分に正直に生きたい」と思ったそう。吉永小百合という女優は、普通のお婆さんになることの真逆の人生を送っている人だ。いつまでも若くて美しく、足腰も鍛えている。そんな人のカラダが、佇まいがお婆さんに見えるわけはないのだが、監督は、それを吉永に要求するのである。ホント、鬼だと思った。
まさに、それだ!
ちょっとノーラン監督と自分を比べるのはおこがましいが、この先に何があるかわからないから、写仏をしたり、漫画を描きたくなる。noteを365日投稿してみようとか、チャレンジしたくなるのだ。
好きな小説家の文章のことをそんな風に言うのは、最高の賛辞ではないだろうか。そんな小説を読んでみたくなる。プロのライターと編集者がなぜか一銭にもならないnoteを続けているのが可笑しくて、時々彼らの記事を覗きたくなる。
「舟を編む」というドラマが刺さりまくっている自分に、まさにタイムリーな記事。なんだろう、このシンクロニシティは。
この記事の一部分を読んでも分かるように、虹花内侍様の美しい言葉の数々に、遊びに行っては、気持ちよく癒されている。
虹花内侍様と言うのは虹色のかめと花笑のさるさんの別名で、彼女は今、自分の源氏物語を編もうとしているのだ。あどけない姫と姫の質問に答える内侍が、源氏物語の世界を姫にひも解く形で、我々読者に教えてくれる。長い物語を、自分なりに書き下ろすのは、骨が折れるがとても楽しそう💖
彼女のチャレンジは始まったばかり。
光の君へをきっかけに、花虹光源氏をひも解いてみませんか?
いつも皆様の素敵な記事をネタに、記事を編ませていただいてます。
有難うございます(⋈◍>◡<◍)。✧♡
(365日連続投稿達成まで、あと3日だ~!ワクワク)