そこに「人」がいるということ〜福島第一原発を視察して
「1号機は、まるで我が子のようでした」。
意外な言葉だった。
「我が子」って、一体、どういうこと?
12年前、未曾有の原子力災害を引き起こした、東京電力・福島第一原子力発電所。
事故を起こし、大勢の人のくらしやなりわいを一変させてしまった原発に、福島県出身の私は、ずっと、どう向き合えばよいのか悩み続けてきた。
ましてや、原発は、機械。金属の塊だ。それなのに、その人は慈愛に満ちたようすで「我が子のようだった」と言うのだ。
当初、その真意がわからず困惑した。その言葉に込められた思いを知ったとき、私はー。
先日、6年ぶりに福島第一原発を視察した。
そこで行われていたこと、現場で見聞きしたこと、そして私が感じたことを中心に、その体験を書き記すことにした。
なかでも、この6年間の「変化」に着目して、筆を執った。
始まった処理水の放出
この夏、福島第一原発は、世界の注目を集めた。たまり続ける処理水の、海への放出が始まったのだ。
30年も40年も続くとされる廃炉作業の重要な局面となる「変化」だ。
その日、8月24日、昼過ぎ。
私は、放出開始を伝えるテレビの特設ニュースを見ていた。
原発上空を飛ぶヘリコプターからの映像や、緊張感漂う原発構内の一室のようす、近くの港からの中継ー。
確かに放出は「始まった」んだろう。けれど、テレビの画面越しでは、どうも実感がわかなかった。
しかし、その数週間後の9月13日。縁あって、私はその現場に立っていた。
処理水放出の現場では
東京電力の社員の方々の案内で、処理水放出のための設備を見て回る。
放出用の設備と、原発の位置関係が俯瞰して見られる「グリーンデッキ」という高台。
海に向かって右手方向に、事故を起こした1号機から4号機が、すぐ左手に5・6号機の原子炉建屋が並ぶ。
福島第一原発は、福島県大熊町と双葉町のふたつの町にまたがっている。
かつて、6つの原発が稼働していたが、現在は廃炉作業が進められている(事故発生時からの経過や廃炉の詳しい状況は、東京電力のwebサイトを参照いただきたい)。
建屋の東に広がる海へと視線を移す。
この日は、快晴。
汚染水を浄化するALPS(アルプス)と呼ばれる施設で発生する処理水が、どのような経路をたどって海に放出されるのか、実際に海のどのあたりから放出されているのか、はっきりと確認することができた。
処理水は大量の海水で薄められ、トリチウムと呼ばれる放射性物質の濃度を、国の基準の40分の1を下回る値まで低くして放出されるという。
さらに処理水には、においもなければ、色もついていない。万が一、何らかのトラブルが起きた場合に放出を止める「緊急遮断弁」などの装置が備えられているー。
処理水の性質やその放出の運用などについて、ひととおり、詳しく説明を受けた。
交錯する「日常」と「非日常」
私は現場で「日常」と「非日常」が交錯する、不思議な感覚にとらわれていた。
目の前には穏やかな海が広がり、頭上には空がどこまでも高く続く「日常」。
一方、私が立っている原発の敷地内では、人類が経験したことのない、廃炉という「非日常」の現場が広がっている。
海岸付近では、そのギャップが際立っていた。
処理水は「非日常」区域から「日常」区域へ放出されている。
その先には何があるのか。それは、海であり、漁である。
私は、目の前に広がる光景と、原発に入る直前に訪れた、ある場所の風景とを重ね合わせていた。
変わらぬ「日常」を願う
原発から北へ10キロに位置する、浪江町の「請戸漁港」。
原発の排気塔が肉眼でも確認できるほどの距離にある。
翌日の出漁に向けた準備だろうか。港に面した建物で、漁業者たちが何かの作業に追われている。
ふいに、子どもたちのにぎやかな声が聞こえてきた。社会科見学で港を訪れたとなり町の児童たちが、漁船に乗り込むところだった。
それを、漁業者たちがやさしく見守る。
この港の「日常」だった。
処理水放出の日、先述したテレビ中継では、この請戸漁港から、地元の漁業者の思いを全国に向けて伝えていた。
このときの記者のコメントが、とても印象に残っている。
豊かな海で脈々と受け継がれてきた福島の漁業が、原発事故で一変したこと、漁業者が深刻な風評被害に苦しみ続けてきたこと、そして、きょうの放出の日を苦渋の思いで迎えたことー。漁業者の思いを、余すところなく伝えていたように思う。
漁業者たちが直面している逆境を、頭では理解しているつもりだった。しかし、港を訪れたことで、テレビ画面越しに記者が紡いでいた「言葉」と港の光景が強く結びつき、その意味することを、身をもって実感したのだ。
漁業者が、私に直接、語りかけてくるようだった。
「安心で安全な魚をとって、売って、おいしく食べてもらえれば、それだけでいい」とー。
テレビというマスメディアから受け取った「言葉」のかたまりが、目の前の光景と一体化したことで現実味を増し、包みこまれ、染み込んでいく感覚。初めての体験だった。
そこにいる「人」と同じ視線で、同じ景色を見ることで「くらし」や「息づかい」が伝わってくる。
現場に足を運び、自分の目で見なければ、体験できなかったこと/自分の目で見たからこそ、体感できたことに違いない。
地元の漁業者と肩を並べて、一緒に沖を見つめたようなあの感覚は、生涯、忘れることはないだろう。
幸い、処理水の放出後、福島では、海産物の取引価格に大きな変化は起きていないという。
今後も、この港の「日常」がずっと続くことを願うばかりだ。
5号機で感じた「変化」
今回、5号機の内部に立ち入れたことは、非常に有意義だった。
5号機は、隣接する6号機とともに巨大津波に襲われたものの、ほかの号機よりも少し標高が高い場所にあり、非常用の発電機も被害を免れて、大きな事故には至らなかったという。
実は、5号機は、事故を起こした2・3・4号機と構造がほぼ同じ。
つまり、ここに入れば、事故を起こした号機で何が起きていたのかをリアルに推察することができるのだ。
現在、5号機は「実物大の実証実験の場」としての役割を担っていて、実際に、今後予定されている2号機での燃料デブリの取り出しに向けた実証実験が行われている。
6年前には行われていなかったことで、ここでも廃炉の「変化」を感じることができた。
いよいよ、原子炉建屋の中に足を踏み入れる。原子炉にここまで近づくのは、人生で初めてだ。
建屋の外と内とを隔てる分厚い二重扉が閉められたとき、全身がこわばり、緊張感が一気に高まる。
ところが、拍子抜けしてしまった。
内扉が開かれた先に広がっていたのは、私の高まった気持ちとはうらはらな、静かで、クリーンな空間だった。
身がすくんだ「ふた」
まるで、何かの工場の内部とでもいおうか。あらゆるものが、整理・整頓されて並んでいる。
左右を見渡してみると、様々なものが目に飛び込んでくる。
レトロという単語がしっくりくるような、少し古びた感じの計器類。どこか懐かしさを覚えるフォント(字体)が踊る掲示物。
ふだんはお目にかかるようなことがないものばかりだ。
エレベーターに乗り、建屋上部にあるオペレーションフロアへ向かう。
すこし小さめの体育館ほどの広い空間に、巨大なクレーンをはじめとする、さまざまな設備が並んでいた。
中央の床に、直径数メートルの円い板状の物が埋め込まれている。これはシールドプラグといって、格納容器の「ふた」だという。
今回、この格納容器の真上に立たせてもらうことになった。
5号機は事故を起こしたわけではないが、私の真下には格納容器があり、さらに圧力容器がある。
事故を起こした号機に置き換えて、足元で起きたことを想像すると、一瞬、身がすくんだ。
事故前の通常運転を行っていた当時は、多いときで、総勢60人ほどの運転員が交替しながら5・6号機の管理に携わっていたという。つまり、ここにもたしかに「人」がいた。
5号機も、すでに廃炉が決まっている。人もまばらなひっそりとした空間は、寂しげな雰囲気が漂っていた。
私自身に起きた「変化」
ここまで、6年前に私が原発を視察してから大きく変わった2つの点について述べてきた。
実は、もうひとつ、大きく変わったことがある。それは「私自身」だ。
6年前に、初めて福島第一原発を視察した際に、心残りだったことがある。それは、私が「この目で見たものを言葉にできなかったこと」だった。
私は、アナウンサーとしてのキャリアをスタートさせて、まだ2年目。
事故や廃炉に関する無数の情報を理解するどころか、整理するだけでも精一杯の状況で、視察した感想を求められても、自分が納得のいく答えができなかった。
いま思えば、当時の私は、まだ『3.11』それ自体と、正面からしっかり向き合えていなかったのだ。
「言葉を使って伝えること」を仕事にしていながら、なにも形にできなかった不甲斐なさは、いまも忘れられない。
あれから6年が経った。
その後、私は地元の福島県で働くご縁を得て、毎日、震災と原発事故について、正面から向き合い、考え続ける環境に身を置いてきた。
震災と原発事故から10年目となる3月のラジオの放送で、ようやく、マイクの前で「あのとき、私は辛かった」と口にした。
そこから少しずつ、自分の言葉で「あの日」のことを形にできるようになってきた。
福島第一原発で見聞きしたことを、こうして言葉に、文字にすることは、とても難しいし、勇気がいる。
でも、力を振り絞って、思うままに書いてみよう。私がそう思ったきっかけは、冒頭で紹介した、あの言葉だった。
「人」がいる、「人」になる
1号機は、まるでわが子のようでしたー。
この言葉を発したのは、今回の視察を案内してくれた、東京電力の社員・Aさん。
原発事故が発生する数か月前まで、現場の技術者として、1号機のオペレーションに携わっていたという。
実は、この言葉には、続きがある。
あの事故を、そんな思いで見つめる「人」がいたことを、私は想像できていなかった。
さらに、Aさんは続ける。
かつて、愛着を持って接してきた1号機が、電源を失って制御できなくなり、多くの人のふるさとを奪い、なりわいを奪い、環境を変えてしまった。その胸中や、いかばかりだろう。
Aさんが1号機を見やるまなざしは、あの過酷な事故と、今後長く続く廃炉への道程を、当事者として未来へ語り継ぐ決意に満ちていた。
そしてAさんの背中越しに、同じように廃炉に携わる東京電力の社員、それに、協力会社の皆さんの姿が見えたような気がした。
若い世代の廃炉の担い手も増えているという。「誰も経験したことのない仕事をしたい」と志し、東京電力に入社する人も多いそうだ。
廃炉の現場には、熱い思いを持った「人」がいる。
私は今回、どうしても、それを伝えたかった。
視察を終えて
そこには、たしかに「人」がいる。
現場に足を運んだからこそ感じる「人の息づかい」がある。
日々のニュースの中には、必ず「人」がいる。
そして、その人の「人生」がある。
伝え手であるアナウンサーとして、そして、肩書きを取り払った「佐藤彩乃」というひとりの人間として生きている限り、心の真ん中に据えておきたいことを、原発の廃炉に携わる方々や、漁業者をはじめとする周辺住民の方々から、直接、手渡してもらった思いだ。
廃炉にかかるとされる期間は、30年とも40年ともされている。
廃炉が終わるころ、私はいくつになっているだろう。どこで何をしているのか、いまはわからない。
それでも私は、これからも現場に足を運び、そこに携わる「人」がいるということを感じ続けたいと思う。
そして、私自身が、その「人」になろう。
廃炉の行く末を見届ける、当事者として。
あとがき
こうして書き連ねながら、まだ、葛藤している。
この記事を公開することで、どんなことが起こるのか、あるいは、起こらないのか。
これほど悩み、書いては消してを繰り返した記事を作るのは、初めてだった。
さまざまな事情で、現地に足を運ぶことが叶わないというみなさんに届けたい。その一心で、ここまで筆を走らせてきた。
読んでくださったあなたの「知りたい」という気持ちに、少しでも応えることができていたのなら、こんなにうれしいことはない。
今回の視察は、大勢の方々のお力添えによって、実現したものです。
福島県を中心に活動するフリーアナウンサー、大和田 新さん(記事に使用した原発構内の写真は、大和田さんからご提供いただきました)、ご一緒させていただいた皆さま、入構にあたり事前取材にご協力いただいた皆さま、実りある視察になるようにと惜しみなくレクチャーくださった皆さま、ご案内いただいた東京電力の皆さまに、この場を借りて、深く、御礼申し上げます。ありがとうございました。
〜今回の視察にあたってふれた資料・作品〜
・THE DAYS
(Netflix配信作品)
https://www.netflix.com/title/81233755