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「嘘松」の向こうにある、物語の真の楽しさとは
SNSが普及して誰もが簡単に発信することができる現代、私たちは日々多くの情報や物語に触れています。
面白い話やウィットに富んだエピソードが投稿されると、内容そのものについての議論や感想ではなく、まず「これは嘘だ」「作り話だ」と断定されることが多くなったと感じることはありませんか?
「聞いた話」として語られる物語に対して、「嘘松」と断じてしまい、蔑まれる流れが増えたように思います。その結果、物語の面白さやウィットに富んだ内容を楽しむ前に、思考が遮断されてしまうケースが多くなっている気がします。
一方で、完璧に作られた雰囲気や世界観は礼賛され、フィクションそのものが嫌いなわけではないことも明らかです。
では、なぜ「一般の人が語る物語」が特にターゲットになってしまうのでしょうか?
「嘘」と断罪されることへの違和感
「嘘松」という言葉がSNS上で広まって久しいですが、「友達の話なんだけど〜」や「さっきこんなことがあったんだけど〜」という形で伝えられる投稿がバズると、話の内容に関わらず「嘘だ」「あり得ない」とコメントする人が少なからず現れます。
しかし、この語り口自体は、日常のコミュニケーションにおいてもよく見られるものですよね。
たとえば、友人や家族に相談する際に、他人事のように語ることで、話しやすくしたり、相手の意見を引き出しやすくするという手法です。
よくあるのが、家庭や恋愛の相談など、ちょっと気恥ずかしいことなどを聞いてもらいたい時。実際に自分の恋愛の話をするのに使ったことがある方もいるのではないでしょうか。私も使ったことがあります。
そして、この手法は都市伝説や怪談の語り口としてもよく使われていますよね。
それは、事実かどうかよりも「もし本当だったら」という想像力をかき立てることで、人々の興味や感情を引き出すためです。
曖昧さが物語の魅力を高め、「本当にあったかもしれない」という思いが想像力を膨らませます。
実際、嘘なんだけど、と前置きされるより、現実としてあるかもしれないと思った方が、想像しやすかったりしますよね。
嘘が価値を持つとき:ニーチェの視点から
哲学者のニーチェは、「人間は真実によってではなく、錯覚や虚偽によって生きている」と述べました。彼にとって、世界は私たちの認識の枠組みの中で解釈され、純粋な「真実」など存在せず、むしろ人々は自己にとって有利な「虚構」を作り出し、それを信じることで生きているのです。
言い換えれば、私たちはある種の「嘘」を生きることで意味を見出し、世界と関わっているとも言えます。
ドラえもんのテーマの「あんなこといいな、できたらいいな」という歌詞は、まさにその視点から生まれる「虚構」ですよね。子供の頃、ドラえもんがいたらいいのに、とか、どこでもドアがあったらいいのに、といった妄想をしたことが一度はあるでしょう。
この視点を現代のSNSに当てはめると、「嘘」を含むフィクションの中にも、私たちは価値を見出しているのかもしれません。
「こうだったら面白い」「こうであってほしい」という願望が物語の真の魅力となり、そのフィクションを楽しむことで、現実の枠を超えた視点や感情が生まれるのです。
だからこそ、ただ「嘘だ」と断罪することで、その物語に込められた可能性やメッセージを見過ごしてしまうのは、少し寂しいなと思ってしまうのです。
フェイクニュースへの警戒心と物語の混同
ただ、フェイクニュースや虚偽の情報が社会に混乱をもたらす中で、人々が情報の真偽に敏感になるのは理解できます。
有事にも関わらず、自分の注目を集めるためにフェイクニュースを流す行為に嫌悪感を抱くのも自然なことです。
他人に対して、「嘘をつく」という必ずしも褒められない行為で、自分の「承認欲求」を満たす行為は、自己中心的で嫌な気持ちを抱くことも少なからずあります。
また、マッチングアプリで、嘘だらけのプロフィールに騙されて、時間やお金を無駄にしたという経験をした人にとって、インターネット上の嘘に対して怒りを抱くのは当然な気がします。
人間という生き物は、時間とお金、食べ物の恨みほど、根にもつことはありませんよね。
エーリッヒ・フロムは『自由からの逃走』において、人間は自由に対して矛盾した感情を抱いており、責任や不確実性から逃れたいという欲求があると述べました。人々は、自分の選択や自由に伴う不安から逃れるため、権威や明確なルールに従おうとするのです。
この視点から考えると、私たちが他人の「嘘」に過剰に反応し、それを厳しく断罪する背景には、真実を追求し、秩序や安全を確保したいという心理が潜んでいるのかもしれません。
「不確実性の時代」と言われる現代、何を信じていいのかわからないというような状況で、嘘を許容する行為を許せないと感じる人が多くいるのも、それはそれで仕方がないことなのかもしれませんね。
フィクションが持つ力
フィクションは、現実では経験できない世界や感情を私たちに提供してくれます。また、物語を通じて他者の価値観や考え方に触れることで、新たな視点を得ることができます。
たとえフィクションであっても、物語を語ることで「こうだったらいいな」という価値観を共有し、共感を得たいという思いが込められていることも多いものです。
情報の真偽を確かめることは大切ですが、物語を楽しむ心の余裕があるといいのにな、とよく思います。
フィクションであることを必ず明言しなくてはいけなくなってしまうと、物語の魅力を損なってしまうことが考えられるからです。
嘘か真実かにとらわれず、その物語が伝えたいメッセージや感じさせてくれる感情を大切にすることができたらいいなと思います。
嘘で承認欲求を満たそうとする行為や、フェイクニュースによる社会的な混乱がある中で、人々が情報の真偽に敏感になるのは当然かもしれません。
しかし、だからといって物語を語ることをやめてほしくはありません。
事実は小説より奇なりとも言いますし、物語を通じて共有される価値や感情は、私たちの人生を豊かにしてくれるものですから。