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疲れるとガラナが飲みたくなるから:東京で感じる自由と心の故郷への帰属感

私は北海道の出身ですが、上京してから出身地を答えると「いいところだよね」といってくれる方が多くいます。東京に来て、改めて北海道の良さを感じるようになったのは不思議な気持ちです。

そして、地元にいる友達たちも、ここから出たくないと言っていることが多い。北海道に住んでいる人たちの多くは、地元のことを愛していて、誇っているのです。

実は、ずっと北海道を離れたくて仕方なかった私にとって、地元を離れたくないと言う人たちの気持ちは理解しがたいもので、自分だけ異端のように感じていました。

私自身、ずっと北海道を出たいと考えていました。そんな私にとって、「地元を離れたくない」と言う人たちの気持ちは、かつてはあまり理解できなかったのです。

東京に感じた自由とプレッシャー

実際に上京してみると、これまで感じていた「閉塞感」から解放されたような気がしました。

北海道では仕事が少なく、自分が興味を持てそうな業務内容の求人はほとんどありませんでした。そのような仕事に就いている人は、地元の人間ではない人がほとんどだったように感じます。

しかし、東京に出てみると、いとも簡単に次々と仕事に出会い、働くことができる。地元では理解してもらえなかった気持ちを理解できる人が多くいる。そういう点では、東京に来て良かったと感じています。

ただ一方で、東京にいると、さまざまな意見を持った多様な人々に囲まれていることを実感します。自分も確固たる何かを持っていないと、あっという間に飲み込まれてしまいそうな、そんなプレッシャーも感じています。

こんなになんでもあるのに、なぜこれを楽しまないのか。選択する自由があるのに、なぜ選ばないのか、いつもその選択を突きつけられている、そんな気がしています。

特に、成長し続けることを求められるような社会の流れは、たまにひどく疲れを感じることもあります。

いま、北海道にいた頃の自分を振り返ると、自然に囲まれ、のびのびと過ごせていた自由があったことに気づきます。

街を歩くと人が少なく、車に乗ればどこにでも行けます。広い空と自然が広がる中で、自分のペースでゆっくりと考えることができました。そんな北海道の自由もまた、私にとってはかけがえのないものだったのだと、今では感じます。

東京では、さまざまな選択肢があるのに、なぜこれを楽しんでいないのか、という無言のプレッシャーを感じることがあります。それに対して、北海道での生活は、選択肢は限られていたけれど、その分自分のペースで自由に生きられた気がします。どちらが本当の自由なのか、時々わからなくなることもあります。

世間話で「心の故郷」の存在に気づく

東京で出会う人たちと会話をすると、自分の出身地について話をすることがよくあります。

最近、私たちがこの場所で故郷の話をするのは、単に世間話をするだけじゃなくて、みんな心のどこかで「自分の故郷」を懐かしんでいるんじゃないのかな、と思うことがあります。

東京という大都会に住んでいると、便利で何でも手に入る反面、どこかで「自分の心の拠り所」を探しているような感覚に陥ることがあります。都会の便利さの裏に隠れた疲れや孤独感から、故郷にあるシンプルな生活や、安心感を懐かしく感じることがあるのかもしれません。

そういった気持ちを、どこで生まれ育ったのかという世間話を経て、故郷の話を聞くことでその一部を懐かしむのではないかと思うのです。

私もまた、東京での生活を楽しんでいながらも、こういった世間話をしているときに地元でののんびりとした時間や自然を脳裏に思い浮かべているのです。

自分も地元の一部だったと気づく瞬間

東京での生活を続ける中で、自分はもう北海道の「外」の人間だと思うようになっていました。

都会のスピード感や多様な価値観の中で暮らしていると、自然と地元との距離を感じることがありました。

自分は、地元にずっと残っている友人たちとは違う道を選んだ、違う環境に身を置いている。そんな風に思っていたのです。

でも、そんな私がふと疲れた時、無意識に「ガラナ」を欲していることに気づきました。

ガラナは、北海道ではよく知られているけれど、東京ではあまり見かけない飲み物。徹夜したり、気分をシャキッとさせたい時の定番なのに、こちらではあまり見かけないものです。

そんな時、「ああ、自分もやっぱり北海道の一部なんだ」と実感します。「自分は地元の人たちとは違う」と思っていたけれど、ガラナを飲みたくなる瞬間や、ふとした時に感じる懐かしさが、自分の中に地元の文化が根付いている証拠でした。

東京に出てきて、いろんな経験を積んで、違う世界を見てきたけれど、根っこの部分ではまだ北海道の自分がいる。

疲れた時にガラナを飲みたくなる自分が、地元を離れても変わらずにいることが証拠です。

地元を出てから見えてきたのは、実は自分自身の中に深く根付いていた北海道の存在だったのかもしれません。


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