見出し画像

終わりを感じるほど、今が美しい日

私は、天気が良くて幸せな日に、ふと死にたくなる時がある。

今日のように降り注ぐ陽光が一際キレイで、空が一面に広がっている。子供が走り回っていたり、おじいちゃんが散歩をしていたり、自転車が颯爽と私を追い抜いていくような、何気ない「いつもの」一日。

そんな日に、ふと「この瞬間がすべてで、これ以上を望むことがないなら、ここで終わるのもいいのかもしれない」と感じることがあるのです。

自分が本当に死にたくなる時は、なにもかも失って絶望の淵に立たされた時なのかな、とずっと思っていたのですが、ふと「今死ぬのも悪くないかもしれない」と思う日がこんなにハッピーだとは思っても見ませんでした。

もしかすると、これは生きている中での一瞬の充足感なのかもしれません。未来のことや昨日の後悔もすっかり消えて、「今」にだけ目が向いているからこそ、これ以上望むものがなくなる。

この静かな心の満足が、なぜか「この瞬間で終わるなら悔いがない」と思わせるのです。

「今ここ」にいることの喜び

こう感じるのは決まって休みの日だったり、家に帰るときだったり、ふと心に余裕のある時。

日常の忙しさは、「今ここ」にいる感覚を失わせるものなんでしょうね。

最近は、ふと心がほぐれて、何も追わずにただ「ここ」にいることが心地よく感じられる瞬間が訪れます。

いろんなことに挑戦したり、新しいことを学んだりして得られる達成感や充足感もいいけれど、最近はもっと日常の中に喜びを感じる時の方が、なんとも言えない高揚感に包まれることが多いように感じます。

この感覚は、無理に探そうとしても見つかるものではありません。

穏やかな天気の日にふいに訪れる「これで完璧だ」と感じる瞬間です。

大きな成果を得たわけでもないのに、その日の陽ざしや、心地よい風、身の回りの美しいものが心に染みて、「ただここにいる自分」を感じることが最高に思えるのです。

晴れの日に、この感覚に至ることが多いのは、雨の日は素直に今を楽しむには少し雑念が多いからなのかもしれません。

水たまりを避けたり、すれ違う人と傘が当たらないように気を配ったり、じわじわと靴下に染みる雨水の冷たさを感じることとか、いろんなことが頭の中でぐるぐる考えています。

家にいる時はわざわざ探してかけるほど大好きな雨音に耳を傾ける余裕もないんでしょうね。

絶望の中にみる死と、幸せの中にみる死

先ほども述べましたが、昔私がイメージしていた「死」に対する感情というものはネガティブなものでした。

誰かが自死を選ぶような状況というのは、どうにもこうにも、生きていることに意味を見いだせないタイミングですよね。『さよなら絶望先生』という漫画がありますが、主人公が「絶望した」とお決まりのセリフを吐きながら自死に向かう姿は典型のイメージのように感じます。

ニーチェは、「人生に意味があると感じられるなら、どんな『なぜ』にも『どうやって』耐えられる」と語りました。彼の言葉には、人生の中で絶望を感じる瞬間でも、それに意味を見出せる限り、私たちは生き続ける力を持つという考えが込められています。

絶望の中で「なぜ生きるのか」と自問する時、私たちはやはり生きることに疲弊しているのかもしれません。もがき苦しんでいる時ほど「なぜ自分は生きているのか」「この先に何があるのか」と考えずにはいられないものです。死を想像するのも、「これ以上の痛みや苦しみがないなら」と、未来への不安に対抗するためかもしれません。

それに対して、幸せな時の「ここで終わってもいいかもしれない」という感覚は、今が限りなく満たされているからこそ生まれるもののように感じます。この「今」に満ち足りている状態は、未来への不安や後悔がない状態でもあり、過去や未来の重みを感じない瞬間なのです。

私はヴィクトール・フランクルの『夜と霧』が好きです。彼は収容所で生き抜いた経験を通して「状況に対する最後の自由」として「心の態度を選ぶこと」を説いています。彼が「今ここ」の瞬間に希望を見出したように、私たちも何気ない日常の中にある美しさや安らぎの中で生きる意味を感じることができます。

穏やかな晴れの日にふと感じる「今がすべてである」という満足感。絶望の中の「死」が行き場を失った苦しみの中にあるとするなら、幸せの中の「死」は、今に完全に浸る充実感の中で浮かぶものなのでしょう。

ただ、『夜と霧』に書いてあることは頭の中で理解はできるんですが、雨の日のちょっとした煩わしさのなかでも気持ちが揺らいでしまう自分には、本当に彼のような状況下で今ここを感じられるのか、とても疑問に思います。

永遠に続いてほしい、この瞬間

この不思議な感覚は、もしかすると「生きる意味を問い詰めない」自由から来るのかもしれません。晴れた日、何かを得るためでもなく、何者かになろうとするわけでもなく、ただそこにいて、この一瞬に満たされる自分を感じる。この自由が、安らぎとして心に染み渡るのです。

「絶望」や「幸せ」も、実はその人の捉え方次第で変わるのかもしれません。雨の日に足元の水たまりを気にすることで晴れの日の素晴らしさが際立つように、今という瞬間を一心に感じるからこそ、何気ない日常が輝く瞬間が訪れるのです。

そして、晴れの日の静寂の中で、どこか永遠に続いてほしいと思うような感覚を覚え、もしこのまま何も変わらずにいられたら、悔いなくすべてが満ち足りる。心に余裕があるからこそ「今」が私にとっての永遠であり、この瞬間で終わってもいいとさえ思うのかもしれません。

しかし、それを追い求める中でふと、何の焦りもなく、ただ静かに生きていること自体が十分であると感じる時があります。何かを成し遂げたからではなく、むしろ「何も足さなくていい」と感じるほど満たされているのかもしれません。

不思議なことに、そんな日があるからこそ、日常の忙しさも意味を持つのかもしれません。「何かをしよう」と奮い立つ日があるから、「何もしなくてもいい」日が美しく思える。充実していると感じる瞬間を追い求めるからこそ、ふと「すべてが満ち足りている」と思える瞬間があるのでしょう。

もし本当にこの瞬間がすべてであるなら、ここで立ち止まってもいいはずです。でも、私たちはまた歩き出し、次の「今」へと向かって進んでいきます。

この完璧な瞬間に留まりたいと思いつつも、再び歩き始める私たちには、まだ知らない明日への期待があるのかもしれません。だから、天気が良くて、幸せな日にふと「ここで人生が終わってもいいな」と感じても、また新しい日々の中に心地よい充足感を見つけられるのだと思います。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?