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一の谷は、正岡子規の聖地⁉︎ 『東海紀行』と子規が詠んだ一の谷(須磨浦)。

正岡子規が明治16年(1883年)に書いた『東海紀行』

と言う文書がある。

「東海」という文字から、愛知県や名古屋など東海地方への旅行記かと思えば、実は、地元松山から上京する途中、神戸までの船旅の旅行記(観光メモ?)である。

この『東海紀行』に「一ノ谷」が登場する。

神戸ニ至ルマデ止マズ舟漸ク神戸ニ近ヅカントス右ニ淡路嶋ヲ控ヘ左ニ播州ヲ望ム舟其ノ間ヲ過グ名所古跡甚ダ多シ余順序ヲ以テ一々指摘セン只恨ラクハ今日此絶景ノ健筆ニ入ルナキヲ(七月二日)

正岡子規『東海紀行』

「名所古跡甚ダ多シ」というカ所は、後に一の谷で詠んだ

夏山のこゝもかしこも名所哉

という句に似ている。

子規は、明石城や舞子の景色などについて書いた後、

前面ニ顕出スル者ハ一ノ谷ナリ
所謂敦盛蕎麦ヲ売ル家ナリ乗客或ハ東ヲ見或ハ西ヲ眺メ或ハ山頂山麓各其思フ所任セテ眼ヲ馳ス是レ敦盛ノ墓ヲ探スナリ漸ク草木深キ処ニ一ノ石塔ヲ現ハセリ一人大声叫ンデ曰ク有リ有リト衆人皆之ニ応シテ呼ブ余懐古ニ堪ヘズ詩ヲ作ル
行客未知懐古情争賖麺麦椀頻傾今猶寂之存
墳墓只有荊榛自在生
峯嶺﨑嶇樹鬱蒼風流懐古涙千行腥風捲地陰雲暗一片荒憤古戦場

正岡子規『東海紀行』

などと書いている。

どうやら、正岡子規の須磨(一の谷)好きは、上京する以前からのようである。

ちなみに、この時子規は、神戸市内を観光して、居留地、布引の滝、湊川神社、福原などを巡っている。

子規は、明治16年(1883年)7月に上京するが、明治20年7月、明治22年8月と12月、明治23年7月(同月帰京)、明治24年4月と7月(9月帰京)、明治25年7月、明治28年3月と8月に松山に帰省している。また、明治25年11月には神戸まで母と妹を迎えに行っている。

子規が、須磨保養院(一の谷5丁目辺り)にいたのは明治28年の7月~8月の帰省までで、その年の秋にもう一度須磨(一の谷)を訪れていることから、須磨(一の谷)で子規が詠んだと思われる句には、夏と秋の季語の句が多い。

ところが、子規は須磨保養院で療養する以前から、内裏跡の句などを詠んでおり、明治27年以前に子規が須磨(一の谷)で詠んだと思われる句には、冬や春の季語のものがある。

松山への帰省や上京の際に、汽車や舟で通過しただけでなく、一の谷に立ち寄っていたと考えれば、明治27年以前に子規が須磨(一の谷)で詠んだと思われる句に、冬や春の季語のものがあっても不思議ではない。

もしかすると、

畑打や草の戸つづく内裏跡

という句は、明治25年にジョン・ホールが異人山(一ノ谷2丁目)に洋館を建てて住みはじめる以前の内裏跡の景色を詠んだ句なのかもしれない。



正岡子規が須磨(一の谷)で詠んだと思われる句の一覧
★印は、安徳帝内裏跡を詠んだと思われる句を示す。

須磨を出て赤石は見えず春の月
聞きにゆけ須磨の隣の秋の風
時鳥ひよとり越を逆落し
初冬の家ならびけり須磨の里
名所とも知らで畑打つ男哉
★畑打や草の戸つづく内裏跡
板の間にはねけり須磨の桜鯛
須磨の笛明石の琴と春暮るゝ
△(畑打の掘り起したる石碑哉 一の谷かは不明)
朧月須磨の釣舟ありやなし
敦盛の笛聞こえけり朧月
立ち出でて蕎麦屋の門の朧月
敦盛の塚に桜もなかりけり
★牡丹咲く賤が垣根か内裏跡
涼しさや松の葉ごしの帆掛船
涼しさや二階をめぐる松の風
涼しさや松の木末を走る真帆
涼しさやほたりほたりと松ふぐり
★涼しさや内裏のあとの小笹原
涼しさや波打つ際の藻汐草
松涼し海に向いたる一くるわ
もつれあふて涼し松風浪の音
涼しさのはてを限るや紀伊の山
すゞしさや須磨の夕波横うねり
すゞしさを足に砕けて須磨の波
あら涼し松の下陰草もなし
松に波われ画にすゞし須磨の浦
うれしさに涼しさに須磨の恋しさに
暁や白帆過ぎ行く蚊帳の外
夜や更けぬ蚊帳に近き波の音
松風の村雨を呼ぶ団扇かな
贈るべき扇も持たずうき別れ
帷子や須磨は松風松の雨
ことづてよ須磨の浦わに昼寐すと
横様に紀の国長し明け易し
六月を奇麗な風の吹くことよ
須磨の松苗を鳴雪翁に寄するとて
水無月の須磨の緑を御らんぜよ
涼しさや淡路をめぐる真帆片帆
涼しさや夕汐満ちて魚躍る
真夜中や涼みも過ぎて波の音
花折て夕闇戻る涼みかな
ある人の平家贔屓や夕涼
夕涼み仲居に文字を習はする
もしほたるゝ京の娘のおよぎ哉
砂濱や何に火を焚く夏の月
名どころや海手に細き夏の月
賤が家の琴立ち聞くや夏の月
真帆片帆右は播磨の青嵐
須磨の灯か明石のともし鵑
夏山のこゝもかしこも名所哉
夏山の病院高し松の中
孑孑や須磨の宿屋の手水鉢
松白帆されど蚊も居り蝿も居る
物凄き平家の墓や木下闇
人もなし木陰の椅子の散松葉
撫子に蝶々白し誰の魂
秋立てば淋し立たねばあつくるし
秋立つと何を雀の早合点
けさの秋きのふの物を取られけり
ののしりし人静まりてけさの秋
秋立つやほろりと落ちし蝉の殻
昇る日や朝寒の松に雀鳴く
蕎麥はあれど夜寒の饂飩きこしめせ
めずらしや海に帆の無い秋の暮
ちかづきの仲居も居らず秋の暮
須磨に更けて奈良に行く秋あら淋し
旅人の盗人に逢ひぬ須磨の秋
淋しさや盗人はやる須磨の秋
青々と猶淋しさよ須磨の秋
来て見れば風が吹くなり須磨の秋
人去つてすがすがしさよ須磨の秋
うつくしき菓子贈られし須磨の秋
須磨の海の西に流れて月夜哉
月昇る紀伊と和泉の堺より
読みさして月が出るなり須磨の巻
藍色の海の上なり須磨の月
名所に秋風吹きぬ歌よまん
秋風や生きてあひ見る汝と我
人も居らずほこりも立たず秋の風
昼鳴いて子に取られけりきりきりす
鈴蟲や風呂場灯消えて松の月
赤蜻蛉飛ぶや平家のちりぢりに
柿ばかり並べし須磨の小店哉
ものうさや手すりに倚れば萩の花
行く春や須磨の磯家の繋ぎ馬
須磨の浦に波打つ春のなごり哉
涼しさの須磨は帆ばかり松ばかり
なぐさみに蚊遣す須磨の薄月夜
旅籠屋の蚊帳に夜明けて須磨の海
欄干や団扇の下の淡路嶋
松風の匂はば須磨の朝の内
△(椅子に昇れ夏山上る異人かな 一の谷かは不明)
蚊柱や夕栄広き須磨の浦
須磨の浦やうしろの山に蝉の声
鐵枴(鐵拐の誤植か?)の吹きいだしたる羽蟻哉
夕顔や簾古(ふ)りたる須磨の家
行く秋を追ひつめて須磨で取り迯す
★雪洞に千鳥聞く須磨の内裏哉
冬枯や提灯走る一の谷
昼寝して須磨に遊ばんか松嶋か
蛸干して烏追ふ蜑(あま)や須磨の秋
須磨の秋金持らしき家見ゆる
須磨涼し唐人どもの夕餉(ゆうげ)時
昼寝する人も見えけり須磨の里
汽車に寝て須磨の風ひく夜寒哉
秋風や通りかゝりし一の谷
汽車の窓にさしこむ須磨の月夜哉
須磨の宿の屏風に描く千鳥哉
須磨の宿の欄間に彫れる千鳥哉

※ある瞬間の美観を詠む「読みさして月が出るなり須磨の巻」という句は、「柿食へば鐘が鳴るなり法隆寺」の作風に通じるものがある、ように思われる。子規の須磨での創作活動は、子規の俳句の作風の完成に大きな影響を与えた、かもしれない。



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