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新しい監督者論:「心理学的な監督」

 一九五七年(昭和三十二)、当時警察大学校で警務関係の研究をしていた佐々淳行氏が『新しい監督者論』(立花書房、一九五七年)を著し、「倫理から心理 へ」と訴え、従来の倫理学的な監督から心理学的な監督へ転換するべきであると主張した。

 ここでいう警務とは、一般官庁でいえば人事に相当するが、元警察官僚の松橋忠光氏は警察官の自殺や悲劇の原因は「人事」にあると指摘している。

 佐々氏は、「一応人格が形成された幹部警察官を相手に、具体的な実践方法を伴わない道徳主義教育を 施しても、なかなか浸透し難いばかりでなく、かえって道徳主義の立場の最も危険な敵であるところの免がれて恥なき〝隠れたる悖徳者〟『偽善者』を、あるい は面従腹背の傾向を、生む結果を招く」と、警察の道徳主義の限界を指摘し、「″隠れたる悖徳者″、『偽善者』」と「面従腹背の傾向」を排除するために、心 理学的な監督の推進を提唱した。

 部下の私的な生活についても心理学的な監督を行う監督者に対して、以下のような注意事項を列挙している。「職務上の地位を利して管内をたかってあるいた り」「部下に煙草をたかってはいけない」「部下の持物を露骨に欲しがったり、暗にねだったりしてもいけない」「職務上の地位を利用した買物は慎しむこと」 「警察手帳を濫用してはいけない」。とくに「家族づれで手帳で交通機関に只乗りしたり、映画館に入ったりする不心得者もいるが、警察の威信を傷つけるばかりか、部下に非常な悪影響を及ぼす」など、ほかにも細かな注意点をあげている。このことは、注意しなければならない現実が存在することを示している。

 また佐々氏は部下の監督に利己心と欲望を利用することを推奨している。それは「殉教者的な考え方をすべての人に期待するのは無理」であり、「平凡人の場 合は、義務を果すことに一種の利益を見出し、他人のために働くことは結局得だと信ずるように指導することを考える必要がある」からである。

 そこで佐々氏は「人間は必ずしも自分の利益ばかり考え、自分を守ってばかりではなく、同時に〝よいことをした〟〝立派な人だ〟と人からほめられたいとい う欲望を抱いている。特に、ひねくれた者や劣等感を抱いている者、消極的な目立たない者は人一倍、大いに認めて貰いたい心理が強い。そこで、利己心や虚栄 心等に働きかけて〝小さな損をしても大きな得をとれ〟と指導し、狭い視野の利己心からすれば一見して損にみえる行為も、友情とか信用とか人望とか、無形の 大きな財産を得ることとなり、結局は己れを利する効果を持つものだと納得させるように心理的に誘導すると、利己心は最大限に利用出来る。」という。

 佐々氏は、部下の心理学的な監督の例として、会議、表彰、賞賛、褒賞などをあげている。

 例えば会議では、「会議に参加し、その発言が採用されると、部下 は警察活動の企画とその展開に自分も参画しているのだとする誇りを感じ、自分の存在価値をみいだし、警察活動に対する民衆の賞賛や非難、或はその対外的影 響などを、自分自身の問題として意識するようになる。」。

 そして、消極的な者にも発言させ、「会議の席上で、日頃劣等感を抱いている者や、ひねくれている 者、消極的なオズオズしている者に発言を求め、それを上級監督者が支持したり、採用したりしてやると、非常に喜ぶものである。大して価値のない発言でも、 実害のない限り一応聞いてやる」ことなどを推奨している。

 表彰には、必ずしも制度的な公式の表彰ばかりでなく、事実上の表彰の仕方があり、「部内の教養誌への掲載も効果的」で、「新聞紙上の、『もの申す』欄等に善行として掲載されることは形式的な公式の表彰よりも勝って警察官に対する刺戟となる。その意味で新聞記者との友好関係を保ち、閑種(新聞記事の埋草)として自分の直属部下をいつでも載せて貰えるという態勢をつくっておく広報的な努力も上級監督者の任務の一つである」と、新聞や警察機関誌の利用を推奨している。

 称讃することも、士気高揚の効果が得られる。「言葉による称讃は、もっとも安あがりな、しかも効果的な方法である。そして、賞める時は、訓示、会議など の機会を利用して多数の人々の前で賞めると有効である。部下のすべてについてどこかよいところを探して誉めてやり、会員に〝自分は監督者から何かの点で認 められている〟と思い込ませておくと、皆懸命に働くようになる。」

 そして、「褒賞の効果は、実質的利益が伴うだけに更に大きい。外勤等で公衆処遇の改善等を勤務重点として打出す時、それに褒賞なり、或は勤務加点をどし どし行うと、面白いように重点が推進される。〝今度の主任は公衆処遇に関心が強いな〟と部下達は敏感に悟り、且つ、その重点に従うことに自分自身の利益を 見出せば、争って公衆処遇のいいところをみせようとするようになるから、結果的にではあるが、公衆処遇が改善される。そして、民衆の信頼が深まり上司の信 頼があつくなってくると、それを裏切ることができなくなり、いつのまにか、功利的な動機からではなしに、奉仕観を持つようになる。」などと佐々氏は述べて いる。

 これらの佐々氏が提唱する心理学的な監督方法は、部下に利益考量を習慣付けることによって、その行動の操作を試みることであり、仮に「殉教者的な考え方」 と外形的に見える行動であったとしても、その行為は利益考量からくる動機への反応でしかない。

 佐々氏は、「いつのまにか、功利的な動機からではなしに、奉仕観を持つようになる。」と主張するが、その転換を確認する方法はない。

 このことは、佐々氏の主張とは異なり、道徳性の向上ではなく、利己的な動機から外形的・形式的に道徳的に見える行動をするにすぎず、利益考量が習慣化されることによって、目先のほんのわずかな利益をもたらす動機に直面した際にも、反射的・機械的にその目的を達成するための行動を選択することにしかならない。

 そのことは、日々新聞記事の埋め草になっている警察官による盗撮などの理解しがたい行為が証明しているといえるだろう。

 漱石の比喩にならって表現すると、『新しい監督者論』は「器械的+探偵主義」に貫かれているということになるだろう。

 佐々氏の心理学的な監督方法は、松井茂が一九一三年(大正二)に「群衆取締に就て」で、「警察官の如きも金銭以外にある善き物ありといふ責務に尽すの観 念を鼓吹し」と、群衆心理を応用したことと変わりない。

 また杉本氏が『警備警察の基本問題』で警察官の士気高揚のために、装備の充実、顕彰、福利厚生等が 必要だと主張したことと一致しており、警察における人事管理が警備警察に含まれていることを示している。

 このことは、企業における人事管理と警備警察との 類縁性をも示唆しているといえるだろう。

 漱石が『吾輩は猫である』(第十一話)で探偵的な人間について「寝てもおれ、覚めてもおれ」で、「どうしたら己れの利になるか、損になるかと寝ても醒め ても考えつづけ」、「二六時中キョトキョト、コソコソして墓に入るまで一刻の安心も得ない」人間と述べたが、佐々氏が提唱する心理学的な監督方法で部下に 利益考量を習慣付けることは、「自己の快を欲するエゴイズム」を鍛え、探偵化(つまり警察化)した人間を大量生産することになりはしないだろうか。

 まるで、漱石の「倫理」から「自殺学」へ(第十一話)との未来予測は、佐々氏の「倫理から心理へ」との言葉を風刺しているかのようである。

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