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「警察の逆上」と「人類其者の虐待」:松井茂の危機「日比谷焼打事件」
漱石は、『吾輩は猫である』(第八話)で一九〇五年(明治三十八)九月五日の日比谷焼打事件について書いている。
日比谷焼打事件というのは、警察が日露講和条約反対運動の国民大会を禁止し、開催予定地の日比谷公園を封鎖したため、大会参加者と警官隊が衝突。これを発端に警察官を標的とした警察施設焼討ちが始まって騒擾となり、警察官がこれに抜剣し応戦、市民に死傷者が多数出たという大事件である。
漱石は、『吾輩は猫である』で日比谷焼打事件について以下のように書いている。
「事件は大概逆上から出る者だ。逆上とは読んで字のごとく逆かさに上るのである、この点に関してはゲーレンもパラセルサスも旧弊なる扁鵲も異議を唱うる 者は一人もない。ただどこへ逆かさに上るかが問題である。また何が逆かさに上るかが議論のあるところである。古来欧洲人の伝説によると、吾人の体内には四 種の液が循環しておったそうだ。―中略― 現今に至っては血液だけが昔のように循環していると云う話しだ。だからもし逆上する者があらば血液よりほかにはあるまいと思われる。しかるにこの血液の分 量は個人によってちゃんと極まっている。性分によって多少の増減はあるが、まず大抵一人前に付五升五合の割合である。だによって、この五升五合が逆かさに 上ると、上ったところだけは熾んに活動するが、その他の局部は欠乏を感じて冷たくなる。ちょうど交番焼打の当時巡査がことごとく警察署へ集って、町内には一人もなくなったようなものだ。あれも医学上から診断をすると警察の逆上と云う者である。でこの逆上を癒やすには血液を従前のごとく体内の各部へ平均に分配しなければならん。そうするには逆かさに上った奴を下へ降さなくてはならん。」(第八話)と。
漱石は「警察の逆上」という表現で、交番勤務の警察官が警察署に参集し、部隊行動したことを批判しているのである。
そして、「逆上を癒やすには血液を従 前のごとく体内の各部へ平均に分配しなければならん」という表現で、警察官の部隊行動をやめさせ、交番勤務の警察官は交番へ戻し、通常勤務体制に戻るべき と指摘しているのだ。
現在でいえば、交番勤務の警察官を機動隊編成し、警備活動を実施したことを批判するに等しい。
漱石が「ちょうど交番焼打の当時巡査がことごとく警察署へ集って、町内には一人もなくなった」と書いているが、巡査召集の責任者が、警視庁第一部長で あった松井茂なのである。
『松井茂自傳』の松井茂先生自伝刊行会委員によると「各署からの応援警察官二百五十名が麹町署に、同じく二百五十名が本庁(内五 十名は三井倶楽部)に召集され、又浅草、本所、水上、新宿、品川、千住、板橋等の各署長も本庁に召集されて、先生の指揮下に入ることになつた。」という。
また松井茂は、「内務大臣官邸に於ても抜剣を命じたり、或は同官邸内の火災の時に屋上に怪しき者あるを認めたので、暴徒として之を斬るべき旨を命令した」と、巡査に抜刀命令や斬り捨て命令を出している。
仕方のないことだったのかもしれないが、皮肉なことに「動物虐待防止」と「人類其者の虐待防止」とを絡めて公徳教育(広義の警察教育)を実施していた松井茂が、「人類其者の虐待」をしたことになる。
事件の翌日(九月六日)、警備責任者であった松井茂は、「『此の事件に就いては余は苟くも第一部長の職に在る以上、責任上進退を決する堅き決意を持つて 居る』旨」を安立綱之警視総監に伝え、安立警視総監は自身の進退伺とともに松井茂の辞表も内務大臣に提出した。
このとき安立警視総監の辞職は認められたが、松井茂は内務次官の山縣伊三郎に慰留され辞表は却下されている。
松井茂は当時逓信大臣であった大浦兼武(以前警視総監を務めその際松井茂の上司であった)に説得され、日比谷焼打事件後の対応を行った。
松井茂は当時を回想して「孤軍奮闘難局に当り、世評が柵の問題に及べば警察権の当然の措置なりと答へ、警察官が多数の者を虐待したと云へば之に対し、極力不法行為者は十 二分に之を取調べて公にすべしと各警察署長に命ずる等、其の他東京府会に臨んでは人権蹂躙問題に接したり、或は東京弁護士会が警視庁廃止を絶叫したりする等、当時の実情は想像以上のものがあつた」と述べている。
松井茂にとって「日比谷の騒擾事件は実に一生中忘るべからざる大事件」であったのである。
さらに漱石は、松井茂の危機の際に松井茂を激励した逓信大臣大浦兼武に対して、文句を言っている。
明治三十八年十一月十日の野間真綱宛書簡で手紙の配達 遅延に以下のような不服を述べているのだ。「あの手紙は三日の消印あるにも関せず七日に到着馬鹿〔々々〕しいぢやげーせんか。附箋も説明も何もありやせ ん。夫から逓信大臣に逐一事情を報告に及んでやりました。僕が大臣に手紙を出したのは生まれて初めてヾす。尤も逓信大臣の名を知らなかったから二三人に問 ひ合して大浦君だといふ事を確かめてかいてやりました。あの手紙を見て郵便配達の取締りを厳にして、且延着の理由を僕の所へいふてくれば大臣だが、平気で 居るなら馬鹿だ―ねー君。」と。
日露戦争前後から通信の検閲も始まったといわれており、もし、漱石が検閲を前提に手紙を書いているのだとしたら、大浦兼武に聞こえるように「馬鹿」と言っていることになる。今でいえば、盗聴を知りながら電話で警備公安警察担当者の悪口を言うようなものである。
以上のように松井茂は日比谷焼打事件の警備担当者であり、事件後の対応も行ったのであった。いわば「日比谷焼打事件」は松井茂の代名詞のような事件であ り、その事件を漱石は『吾輩は猫である』で「警察の逆上」と呼んでいるのである。
これが松井茂の警察政策の風刺でなくてなんであろうか。